the shadow of silver
SOS日記本メルマガ掲示板プロフィール

出版書籍一覧 / WEB小説 「星祭り」 / WEB小説 「彼とわたしの静かな夏」 / WEB小説 「ミラージュタワーの『子供』たち」


朝には目覚め、夜には眠る、ごく当たり前の生活。

ただ、彼らの空にはいつも、銀色の魚が泳いでいた。

世界は、水の中にある。

 これは、そんな星の物語。


◇ 星祭り ◇

第1章(1)

第1章(2)

第2章(1)

第2章(2)

第2章(3)

第3章(1)

第3章(2)

第3章(3)

第4章(1)

第4章(2)

第5章

第6章(1)

第6章(2)

第6章(3)

第6章(4)

第7章(1)

第7章(2)

第8章(1)

第8章(2)

第8章(3)

第8章(4)

第9章(1)

第9章(2)

第9章(3)

第9章(4)

第9章(5)








第3章・絵画少年、ピシス



 やがて部屋のドアが開いてカイトが現れる。四角い盆にはストローの付いたカップが三つと、色とりどりのチョコレートが盛られていた。カイトはその盆を勉強机の上に置くとカップを一つ取って、ピシスに手渡した。

「ありがとう」

 ピシスはベッドの上でそれを受け取った。

「勝手にお菓子も持って来たけど、良いのかな?」

 カイトの問いにピシスは別に良いよと答え、ストローから紅茶を一口含んだ。

「おいしいね。ぼくが淹れなくて良かったよ」

「紅茶の葉が良いんだよ」

 カイトはそう謙遜してから自分のストローを吸い、満足そうにうなずいた。部屋に椅子はリブラの座っている一脚しかないので、カイトは立ったまま本棚にもたれ掛かっている。リブラは席を譲ろうかと思ったが、彼は特に気にした様子はなかった。ピシスはリブラから受け取ったチョコレートの一つを爪で細かく刻み、そばに置かれた格子状の魚カゴの中に入れる。二匹の魚は争うようにチョコレートに食い付いた。

「魚もチョコレートを食べるの?」

 リブラが驚いて尋ねる。

「こいつらは食べるんだ。」

 ピシスは元気良く泳ぐ魚たちを優しく見つめながら答える。これにはカイトも興味深そうに覗き込んだ。この二匹はちょうどピシスが病に冒されたころに部屋へ迷い込んで来て、そのままずっと居座っているのだとピシスは話した。二匹がここを気に入っている証拠に、囲んでいる魚カゴは形式的な物で二匹の大きさではその隙間から容易に出入りができる。おかしな魚もいるものだとリブラとカイトは感心した。

「最近は何をしているんだい?」

 カイトは魚たちから眼を離して尋ねる。

「調子の良い日なんかはずっと本を読んでいるね」

 ピシスが本棚を示しながら答えた。カイトも自分のもたれ掛かっている本棚に眼を移した。ずらりと並んでいる本は小説のたぐいが多い。リブラはまだ魚の行動を見つめていた。

「ずいぶんと読んでいるんだね」

 カイトは感心する。しかし、彼自身はそれよりもさらに難しそうな本を、それ以上に沢山読んでいることを、ピシスもリブラも知っていた。

「それくらいしか、することがないからね」

 ピシスは淡々と答える。それは読書など大して楽しくないという感情が込められていた。

「絵は?」

 カイトの質問にリブラも顔を上げてピシスを見る。部屋を見る限り、彼が絵を描き続けているとは思えない。

「……手が痺れるから」

 ピシスはそれだけ答える。その表情は寂しげではあったが、諦めてもいる風にも見えた。

「治ったらまた描けるよ」

 リブラは精一杯励まそうと声を上げる。卓越した才能を持ち、なによりも絵を描くのが大好きだった少年。その程度の慰めで癒されるものではないことはリブラにも分かっていたが、他に良い言葉が思いつかなかった。ピシスは若干の憂いを含んだ笑顔を見せて、そうだねと静かに答えた。カイトは何も言わず、東向きの窓の外を眺めている。遠くに無機質な工場地帯が見える。高く伸びた数本の煙突からは延々と灰色に濁った水が吐き出され、周囲の水を汚していた。北の方には中央局が見える。高く築かれた繁栄の塔。ピシスの父親が居た所だ。

「それで、君たちの方は最近何をしているの?」

 明るい声でピシスが聞き返す。絵の話はそれ以上したくないようだ。

「そう、宇宙人に会ったんだよ」

 そう答えるリブラにカイトは苦笑いを漏らした。

「宇宙人って、『スクルプトル』の?」

「うん、そうだよ」

 リブラは答えた後、セルペンスとの一件を興奮した面持ちで話し始めた。カイトはその話について特に口を挟もうとはしない。ピシスは静かにうなずきながら聞いている。二匹の魚たちもその話に、存在しない聞き耳を立てているように思えて、リブラを饒舌に語らせた。

「……宇宙人か。ぼくも会いたかったよ」

 話を聞き終えたピシスはあまり感情の窺えない表情でそう答える。リブラは、元気になったら会いに行こうと、カイトが来訪を止めていたことも忘れてそう言った。ピシスはリブラを見つめてぼんやりとしている。窓から冷たい水が流れた。ふと、リブラはなぜか突然話が終わってしまったことに違和感を抱いた。ピシスは動かないまま、まだリブラを見つめている。その碧い瞳には光がなく、まるでリブラを越えて遠い所を見ているようだった。

「どうしたの? ピシス」

 リブラに呼びかけられたピシスは、まるでたったいま眼が覚めたように瞬きをした。

「具合が悪いのかい?」

 カイトもその不自然さに気づいて声をかける。ピシスは数回頭を振ってそれを否定した。髪が再び彼の眼を覆った。

「いや、大丈夫だよ。最近、頭が冴えなくなる時があるんだ。こう、白い霧がかかったような、夢を見ているような気がするんだ。たまに自分がいま寝ているのか、起きているのかが分からなくなって、すごく不安になるんだ。おかしいだろ」

 と言ってピシスは疲れた顔にわずかな笑みを浮かべた。カイトは冷たい表情でそれを見つめていた。

「薬の影響じゃないかな。恐らく痛み止めの類も含まれているんだろう。定期的に摂取し続けるとそうなってしまうんだ。病気が治って、薬を飲まなくても良くなれば、それも治るよ」

 カイトはそう言い切る。ピシスはカイトを見てうなずき、痛み止めか、とつぶやいた。



 ピシスの母親が帰って来たので二人はそろそろ家を出ることにした。ピシスのまた来て欲しいという頼みを二人は快く了解した。リブラはカイトに続いて部屋を出ようと椅子を立つ。立ち去る直前に、ピシスはリブラを呼び止めた。

「リブラ、最近どこかでお祭りなんてあったかな?」

「……お祭り? さあ聞いたことないよ」

 脈絡のない話に不思議そうな顔をしてリブラはそう答える。ピシスはそれを聞いて何か考えるような表情になり、

「そうか。それじゃあれも夢だったのかな」

とつぶやいた。

「夢?」

「いや、良いんだ。またね」

 それっきりピシスは話さなくなった。リブラは妙な気分のまま部屋を出る。カイトにならってピシスの母親に礼を述べると、母親はまた来てあげてくださいと丁寧に頭を下げた。痩せた母親のその顔はピシスによく似ており、やはり危うげだった。

 家を出た後カイトは、リブラが話しかけても終始無言のままだった。二人は来た時と同じく、二機あるエレベータの右側に乗り込む。低音が響き、今度は押しつけられるような感覚が二人を襲った。

「思ったより元気そうだったね」

 リブラは、カイトの方を向いてそう言う。カイトは一瞬リブラと眼を合わせたが、すぐに視線を逸らして、来た時と同じように階数表示のランプを見つめた。静止した緊張感がエレベータ内に広がる。リブラにはそれが、カイトが無言で自分の言葉を否定しているように思えた。

「そんなに、辛そうには見えなかったけど?」

 リブラはもう一度話しかける。

「……辛くはないかもしれない。肉体的にも精神的にも、苦痛を薬で遠ざけているんだから」

 カイトは重そうに口を開いてそう言った。絵を描けない苦痛から逃避し、夢と現実の狭間を漂う少年。そこではそれ以上絶望することはないが、希望を持つこともできない。しかし、二人の少年にはそれを止めることなどできるはずもなかった。リブラは黙って閉じられたドアを見つめている。機械の音が止み、ドアがゆっくりと開く。冷たい波が少年たちの頬に触れた。マンションを出ると、来た時よりも多くの人間の激流が大通りに流れていた。

「ピシスの部屋に、絵の道具がなかったね」

 リブラは流れていく人々を見つめて言う。カイトはやはり無言のまま激流に身を投じた。リブラもそれに続く。見上げるとマンションの6階、5番目のドアが固く閉じられている。筆の持てない絵描きは、どんな夜を過ごすのだろうか。リブラはそんなことを考えていた。



(第4章(1)へつづく)