the shadow of silver
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朝には目覚め、夜には眠る、ごく当たり前の生活。

ただ、彼らの空にはいつも、銀色の魚が泳いでいた。

世界は、水の中にある。

 これは、そんな星の物語。


◇ 星祭り ◇

第1章(1)

第1章(2)

第2章(1)

第2章(2)

第2章(3)

第3章(1)

第3章(2)

第3章(3)

第4章(1)

第4章(2)

第5章

第6章(1)

第6章(2)

第6章(3)

第6章(4)

第7章(1)

第7章(2)

第8章(1)

第8章(2)

第8章(3)

第8章(4)

第9章(1)

第9章(2)

第9章(3)

第9章(4)

第9章(5)








第6章・学校の中、四つの恋



 ラケルタ先生は、リブラとカイトのクラスの担任だ。背が高くて体が大きくて、短く刈り込んだ白い髪の下にはいつも温和な笑顔をたたえている。時折冗談も混じえる気さくな口調で授業を行うので、生徒たちからもよく好かれていた。三十二歳になるこの先生は文学を専門的に教えているが、社会学や科学、生物学など多くの学問に精通している。知識欲が旺盛で、教職に就いたのも子どもたちに勉学を教えつつ、自分の学問にも集中できるからというのが理由だった。

 もちろん、だからといってラケルタ先生が教育を疎かにすることはない。彼が何よりも興味を惹かれる学問こそが、その教育学だからだ。彼は教育が好きだ。他の多くの学問と違い、机上の論理のみでは解決のできない種類のものだからだ。それが専門の文学なら、生徒の数だけ何百通りもの解答が産み出され、それら全てが正解となることもある。これが彼に更なる知識欲を湧き上がらせて、喜びを抱かせる。彼がその優秀さを買われて推薦を受けた中央局員の地位を断って教職に就いたのも、その純粋な欲望のためだった。

 そんなラケルタ先生が指導する生徒の中に、カイトがいる。この少年もまた何百人もの教え子の一人として愛すべき生徒なのだが、贔屓しなくとも注目せざるを得ない少年だった。頭の回転がずば抜けて速く、一を聞いて十も百も知ってしまう。毎年開催される学校統一試験でも、二番を大きく引き離して首席になってしまうほどだった。

 中央局もカイトの優秀さには注目しており、その担任がラケルタ先生だと知ると、彼ならばと納得しているらしい。しかし少年の才能がラケルタ先生の教育の範疇を超えていることは彼自身が実感していた。自分の役割は、カイトが求めるものを与えてやるだけだ。彼はそう理解していた。そして、あわよくば彼が優秀な理由を汲み取って他の生徒たちへの教育に役立てたいと思うばかりだった。



 きょうは水温も高く、ずいぶんと温かい。窓から見える校庭を取り囲む泡桜も、芽を出す頃合いを魚たちに尋ねているようだった。ラケルタ先生はそれを眺めつつ、何事かじっと考え込んでいた。

「先生」

 後ろから声をかけられてラケルタ先生は振り返る。きちんと整列した机の一番前に、カイトが銀縁眼鏡の奥に聡明な光を宿して席に着いていた。放課後の教室には二人しかいない。普段の授業中とはまた違う、人の気配がしない静寂に包まれていた。

「ああ、できたかい」

 ラケルタ先生はそう言ってカイトのほうへ足を進めた。カイトはうなずくと、細かい文字でびっしりと埋め尽くされた解答用紙を差し出した。ラケルタ先生は受け取って目を通す。出題したものは少年より十も年上の学生が頭を抱えるほどの証明問題だ。しかし解答に費やした時間はあまりにも短い。ラケルタ先生は普段生徒には見せない、険しい学者の顔でじっと紙に眼を走らせる。カイトは机の角をぼんやりと指でなぞっていた。

「……完璧だね」

 ラケルタ先生は溜息をつくように言う。出題したのは生物学の論文解答形式の問題だが、文句の付けようがない模範的な出来映えだった。ラケルタ先生はあらためて少年の小さな頭の中身に驚かされたが、同時に学者としての羨望と嫉妬の入り交じった奇妙な感覚を抱いた。カイトは、そうですかと短く返事をして微笑んだ。

「大した理解力だよ」

「先生のお陰です」

「君の実力だよ」

「教えていただける先生がいらっしゃる限りは、理解できない物事はないと思っています。問題はそこから先の創造力と想像力です」

 カイトの発言は、ラケルタ先生の授業も自分が今後立ち向かうであろう未知の難問への基礎程度にしか考えていないことを伝えていた。

「なるほど、だがそれも君なら何の不安も持つことなく進んでいけるだろうね」

「ありがとうございます。」

「どうだい? 最近分からない学問分野はあるかい?」

 ラケルタ先生の質問にカイトはくすりと笑った。

「分からないことだらけです。特に経済学や経営学はまだまだ難解です」

「そちらの方面はどうしても実務経験を通らなければ理解し難いところがあるからね」

「他には人生に対する学問でしょうか。特に恋愛学……」

「恋愛学?」

「……はい」

 カイトは若干照れ臭そうに答える。ラケルタ先生はその表情を見て思わず微笑んだ。なるほど、いくら頭脳明晰であったとしても少年の年頃で一番難解なものはその分野なのかもしれない。それにしても恋愛学とは、実に彼らしいと思った。

「その学問もまた、いくら机に向かっていても理解できるものではないね。かと言ってぼくも勉強不足であることは認めざるを得ないよ。まあ気長に、一生を通して考え続けるものなのだろうね」

 ラケルタ先生は優しく答える。カイトは、はいと返事をしたものの、煮え切らない表情を浮かべていた。その顔に少年の言葉の裏が読み取れた。

「カイト君、何か悩んでいることでもあるのかい? それならぼくも相談に乗るよ」

「あ、いえ……まだ大丈夫です」

 カイトは自分の浮かない表情に気づいて首を振る。ラケルタ先生はそうかいと答えた。自ら語らないのならあえて追求することもない。これ以上尋ねても少年は絶対に話さないだろうと思った。

「ところで先生」

「何だい?」

「失礼ですが、ご結婚はされないのですか?」

 カイトにそう聞かれて、今度はラケルタ先生が答えに詰まった。

「そうだなあ、もう三十二歳だしな。よくよくその質問を浴びせかけられるよ」

 ラケルタ先生は笑って答えてはいたが、内心は笑えるものではなかった。気がつけばもう、周りの同年代は大抵所帯を抱えている。教師は一般的に結婚するのは遅いものだが、さすがに三十路を超えてしまうと親などからもまだかまだかと言われたり、心配して見合いなどを薦められたり、それも断っていると質の悪い噂話も囁かれたりした。

「関心はありませんか?」

「ない訳じゃないんだけどね。ずっと仕事に取り組んできたから、うっかり忘れていたんだよ。良い人がいれば話は別なのだろうけど」

「……スピカ先生は?」

 カイトが窺うような表情で尋ねる。スピカ先生もこの学校の教師だ。近頃、彼女とラケルタ先生との噂が子どもたちの間に流れていることはラケルタ先生自身も知っている。そして、それはまんざら根も葉もない噂でもなかった。

「どうだろうね。でもぼくなんかじゃ釣り合わないと思うよ」

「そうでしょうか?」

「うん。スピカ先生は自分に凄く厳しい方なんだよ。常に自分に問題を課してそれに取り組んでおられる。自分に甘いぼくなんかは認めてさえくれないよ」

「ずいぶんと観ておられるのですね」

 カイトはそう言って銀縁眼鏡の奥の鋭い眼を光らせる。ラケルタ先生は子どもっぽく膨れた顔をした。

「参ったな。喋り過ぎた」

「大丈夫ですよ。噂を流すような真似はしませんから」

「頼むよ。スピカ先生に申し訳ないから」

 二人はそう言って笑った。笑いながらラケルタ先生は、本当の自分はどう考えているのだろうかと思った。静かな教室に放課後終了のチャイムが鳴り響く。これ以降はいかなる場合でも生徒は下校しなければならないきまりだった。

「もうこんな時間ですね。では、ぼくはそろそろ失礼いたします」

 カイトはそう言うと、机の上の筆記用具やら参考書やらを鞄にしまい込んで立ち上がった。

「うん。気をつけて帰るんだよ。じゃまた明日」

 ラケルタ先生は笑顔で片手を挙げる。

「はい。きょうもありがとうございました」

 カイトは深く頭を下げ、教室を出ようとしたが、ふと背後のラケルタ先生の視線に気づいて振り向いた。ラケルタ先生は腕を組んだまま少年を見ていた。

「……先生、どうかされましたか?」

「いや、どうということはないんだが……」

「はい?」

「……君はスピカ先生に似ているなって思ったんだ」

 ラケルタ先生はそう答えた。答えてから自分でもなぜそう思ったのか分からなかった。高みを望み、自己に厳しく妥協を知らない向上心という点が似ていたのか。いや、そうありたいと望みながらも、恋愛感情などを排除できない人間臭さが共通しているのかもしれない。

「それは光栄です」

 カイトは笑って礼を言う。ラケルタ先生はただうなずいて返した。もちろん、彼にとっては好意を抱ける条件だった。



(第6章(2)へつづく)