the shadow of silver
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朝には目覚め、夜には眠る、ごく当たり前の生活。

ただ、彼らの空にはいつも、銀色の魚が泳いでいた。

世界は、水の中にある。

 これは、そんな星の物語。


◇ 星祭り ◇

第1章(1)

第1章(2)

第2章(1)

第2章(2)

第2章(3)

第3章(1)

第3章(2)

第3章(3)

第4章(1)

第4章(2)

第5章

第6章(1)

第6章(2)

第6章(3)

第6章(4)

第7章(1)

第7章(2)

第8章(1)

第8章(2)

第8章(3)

第8章(4)

第9章(1)

第9章(2)

第9章(3)

第9章(4)

第9章(5)








第6章・学校の中、四つの恋



 スピカ先生はコルブのクラスの担任だ。二十八歳のこの女性数学教師は、痩せた体に授業で使う大きな三角定規を抱えて生徒たちを威嚇している。切れ長の眼は冷たい印象を与えるが、長い白髪はなかなか美しく、全体的には美人と呼べる顔立ちをしている。しかし、彼女にはそれが分かっていないのか、関係のないことなのか、普段からその整った顔に皺を寄せては生徒を叱りつけていた。そのため生徒たちからは好かれておらず、その授業はラケルタ先生のものとは違った、常に爆弾を抱えたような緊張感が漂っていた。

 もちろんスピカ先生も生徒が嫌いなわけではない。生徒の中には彼女があまりにも厳しいのでそう誤解してしまう子もいるようだが、そもそも生徒が嫌いな教師などいるはずもなく、いるべきでもなかった。彼女もラケルタ先生と同じく、生徒を教え、生徒に教えられるこの仕事を自分の天職だと信じて疑わない。ただ、その教育方法がラケルタ先生とは違い、本当に生徒のためを思った教育を行っているのなら自分はいくら嫌われても構わないと考えていた。その献身さは母親に通じるものであり、彼女は生徒全員を自分の子どものように扱おうとしている。だが、生徒の中ではそう感じていないのも数多くいる。彼女は母親にしては、生徒にとっても彼女にとっても若過ぎるのだろう。その格差が彼女を悩ませることもしばしばあった。



 スピカ先生は晴天の空や泡桜の木立には目もくれず、一直線に校庭を突き進んでいる。校庭の隅のにはコルブが、きょうも水煙草を吹かしながら浮かんでいた。先生が目前にまで近づいても少年はその行為を隠そうとはせず、ただ楽しそうに手を振っている。スピカ先生に対してそんな行動が取れるのもこの少年くらいだった。

「……少しは悪びれてくれれば、可愛げもあるんでしょうけどね」

 スピカ先生は第一声に嫌味を言う。

「以後気をつけます、スピカさん。もう少し悪びれるように」

 コルブは微笑んで答えると、白い水を晴天に向かって吹いた。外見はスピカ先生も羨むほど綺麗な少年だった。

「そういうことじゃないでしょ。ポラリスでは喫煙は二十歳を越えるまでは禁止されているのよ。そうでなくても水煙草は毒物以外何物でもないのよ。知っているでしょ?」

「進んで毒を飲む奴を止める必要はない」

「何?」

「カイトがそう言っていた」

「カイト君が? そう、それは諦められているのよ。でもそんなことでも言ってくれる友達に感謝しなさい」

「友達か」

 コルブは空を見上げる。

「友達なんでしょ?」

「うん、友達だ」

 コルブは一人で納得したふうにうなずいた。スピカ先生は溜め息をつく。無遠慮に浮かぶ、水煙草は吸う、教師に対して敬語を使わない。それでもこの少年はどこか憎めないところがあり、スピカ先生の、見捨てることのできない子どもの一人だった。

「ともかく、水煙草はしまいなさい」

 スピカ先生に言われて、コルブはうんとつぶやいて水煙草を胸ポケットに収めた。

「それと、あんまり節操なく浮かばないように」

「あまり怒らない方が良いよ、スピカさん。せっかくの美人が台無しだ」

 コルブはゆっくりと砂の上に着地しながらそう言った。

「あなたが怒らせているんでしょ」

「怒ってばかりいるとその印象が強くなり過ぎて、普段のスピカさんが薄れてしまう。もったいないよ」

 コルブはにこりと笑う。スピカ先生も呆れ返って微笑んだ。

「ほら、そっちの方がずっと素敵だ」

「ありがとう。でもあなたにそう言われてもちっとも嬉しくないわね」

「ラケルタ先生もそう言ってくれるはずだよ」

 スピカ先生は鋭い眼でコルブを睨んだ。

「何を言い出すかと思えば」

「隠さなくても良いよ」

「あんなのは単なる噂よ」

「二人があんまりはっきりしないから噂になったんだよ。そうでなくてもおれには分かっていたけど」

 スピカ先生は何か言い返そうとしたが、結局何も言わなかった。二人が噂になっていることは彼女自身も知っている。内心、悪い気はしていないが、そのことで生徒たちが盛り上がるのは良くないことだと考えていた。しかし、もうそんな思いが通る状況でもなさそうだった。

「何にしても、私とじゃラケルタ先生もご迷惑でしょうね。釣り合わないわよ」

「そうかな?」

「そうよ。ラケルタ先生はとても真面目で賢い方なのよ。それに落ち着いておられるし、生徒たちにも優しく接しておられるのよ。私みたいに怒ってばかりじゃなくてね」

 スピカ先生はまるで自慢するように語る。

「釣り合いで恋愛するもんじゃないでしょ?」

 コルブは大人びたことをさらりと言う。

「違うわよ。そんな噂を立てられたら、ラケルタ先生にご迷惑だと言っているの」

「まさか。あの人もまんざらでもないと思うよ」

 スピカ先生はうかつにも若干の動揺を隠しきれなかった。コルブはそれを見て、ただ口の左端を持ち上げて笑った。校庭では何人かの子どもたちが走り回ったり、ボールを浮かばせて遊んでいたり、こちらの方を見ては、またコルブが怒られているぞと囁いている者たちもいた。波がずいぶん温かくなっている。足下には校庭に迷い入った一匹の蟹がうろついている。コルブはそれを指で摘み持ち上げた。

「スピカさん」

 コルブは身動きがとれなくてじたばたしている蟹を見つめて話しかけた。

「何よ?」

「やっぱり、ラケルタ先生が他の女と仲良くしていると良い気分はしない?」

「またその話?」

「うん。真面目に答えて」

 コルブは蟹からスピカ先生に眼を移す。その大きな瞳にスピカ先生はやや圧倒された。およそ彼らしくない、真剣な眼差しだった。

「……そうね。それが勤務外であれば、あまり良くは思えないかもしれないわね」

 スピカ先生は答えてから、自分の軽率な発言に気づいて戸惑った。

「いや、それは、違うのよ」

「そう……そうだろうな」

 コルブはそんなことも気にしていないように考え込む。その態度で、スピカ先生はいまの質問が自分たちのことではなく、コルブ自身が抱えている問題なのだと気づいた。

「何か、悩んでいることがあるの? コルブ君」

「うん。もうちょっと複雑なものだけどね」

 コルブは蟹を遠くに投げる。小さな点になった蟹は、ゆっくりと校庭に舞い降りた。

「相談に乗りましょうか? これでもまだあなたよりは場数を踏んでいるつもりよ」

 スピカ先生の勇ましい申し出にコルブは笑った。

「いつもの授業もそんな調子でやればいいのに」

「結構よ。授業はあのままで良いの。で、どうなの?」

「うん……いや大丈夫。何とかするよ」

「それなら良いけど。あんまり女の子を泣かせちゃだめよ」

 コルブは女の子ねえとつぶやくと、いつものように無邪気な笑顔に戻った。

「それじゃ、きょうのところは帰るよ」

「水煙草は止めなさいよ。あと授業もちゃんと毎回出席しなさい」

「そうだな。スピカさんの顔も毎日見たいしな」

 コルブは片目をつむって笑いかける。スピカ先生は呆れ果てると同時に、何か大きな、ちょうど難解な方程式を解明したような発見を感じて戸惑った。コルブが不思議そうに、その様子を見ていた。

「どうしたの? スピカさん」

「あなたは、ラケルタ先生に似ているわね」

「へえ、どこがですか?」

「……何となくよ」

 スピカ先生は答えてから、なぜそう感じたのだろうかと考えた。勉強熱心なところではない。気さくな性格と口調のせいだろうか、いや、その奥に常に優しさが見えるところからそう思えるのかもしれない。それと笑顔が愛らしいところも。

「それはそれは、光栄の極みでございます」

 コルブは右手を自分の胸に添えて、うやうやしく頭を下げる。スピカ先生はもう一度、呆れたようにほほえんだ。



(第6章(3)へつづく)