the shadow of silver
SOS日記本メルマガ掲示板プロフィール

出版書籍一覧 / WEB小説 「星祭り」 / WEB小説 「彼とわたしの静かな夏」 / WEB小説 「ミラージュタワーの『子供』たち」


朝には目覚め、夜には眠る、ごく当たり前の生活。

ただ、彼らの空にはいつも、銀色の魚が泳いでいた。

世界は、水の中にある。

 これは、そんな星の物語。


◇ 星祭り ◇

第1章(1)

第1章(2)

第2章(1)

第2章(2)

第2章(3)

第3章(1)

第3章(2)

第3章(3)

第4章(1)

第4章(2)

第5章

第6章(1)

第6章(2)

第6章(3)

第6章(4)

第7章(1)

第7章(2)

第8章(1)

第8章(2)

第8章(3)

第8章(4)

第9章(1)

第9章(2)

第9章(3)

第9章(4)

第9章(5)








第8章・ピシスの描いた世界



 ピシスのマンションの六階へと直接飛び込んだ三人は、足をふらつかせながら家の前に辿り着いた。三人は互いに見合わせて中にいる友達の様子を想像する。病気はどれほど進行しているのだろうか。まだ口は利けるのだろうか。やがてここで思い悩んでも仕方がない思ったコルブが意を決して呼び鈴を鳴らした。しばらくの後、ドアが開くとピシスの母親が青白い顔を見せた。

「こんにちは」

 コルブが珍しく丁寧に挨拶をする。

「ああ……ごめんなさいね。授業中だったのでしょう?」

 ピシスの母親は消え入りそうな声で言う。まるで彼女まで病人に見えた。

「ちゃんと許可は取っていますからお構いなく。ピシス君は?」

 と言ったのはカイトだ。

「部屋にいます。なんだか随分とあなたたちに会いたがって……」

「お邪魔します」

 リブラは母親の断りも聞かずに中に入る。早く会ってやらないといけない。一秒も無駄にできないように思えた。他の二人もそれに続く。母親は何も言わず少年たちに道をあけた。

「ピシス、入るよ」

 リブラがドアに向かって言うと、入ってくれという返事が聞こえた。何かで口を覆われているような、妙にくぐもった声だった。後ろを振り返るとカイトとコルブが目でリブラをうながしていた。

 ドアを開いて部屋に入り込んだリブラは、後ろの二人のことも忘れてその場に立ち尽くしてしまった。部屋が、なくなっていたのだ。いや、床はある。しかし、壁と天井がなくなり、はるか彼方までポラリスの風景と青空が広がっていた。後ろの二人もリブラの肩越しにそれを目にして驚いている。いったい何が起きたのかとリブラはぽっかりと口を開けて眺めた。やがて閉塞的な雰囲気と、水が動いていないことに疑問を感じる。それで初めて、この世界が、部屋の一面に描かれた絵であることに気がついた。その描写があまりにも見事だったので三人はその異常さよりも感動を覚えていた。

「入りなよ。リブラ」

 部屋の奥のベッドではピシスが、画板を首から下げて、口に絵筆をくわえて座っている。くぐもった声は絵筆をくわえていることが原因だった。リブラたちは恐る恐る部屋に踏み込んだ。

「すごいね……」

 リブラは床に座り込んで天井を見上げる。高い空がどこまでも広がっていた。

「なんか、気持ち悪いな」

 コルブは正直な感想をつぶやく。

「面白いだろ」

 ピシスは満足そうに笑う。三人はその顔を見てもう一度驚いた。少年の顔は不気味に痩せ細っており、異常に大きい双眸(そうぼう)だけが力強く輝いていた。純白の美しい髪はぼろぼろに傷み、ところどころで土を被ったように汚れている。一目で危険な状態であることは分かる。ただその骨ばった体は必死に生きようとする力がみなぎっているように見えた。

「どうしたんだい? いきなり呼び出して」

 唖然としている二人をおいてカイトが尋ねた。

「この部屋を見せたかったんだよ」

 こともなげにピシスは返した。

「すごいよ! さすがはピシスだ!」

 我に返ったリブラが叫ぶように絶賛した。

「ありがとう、リブラ。」

「手、動くようになったんだね!」

「いや、絵筆を手に縛りつけて、肩で描いたんだよ。それもいよいよ難しくなると、こんな風に口にくわえて描いたんだ」

 ピシスは絵筆を口で動かしながら話す。三人は彼の執念に驚かされた。

「どうして、そこまでして……」

 コルブが三人を代弁してそうつぶやくと、ピシスは楽しそうに笑った。

「治る見込みがなくなったからだよ」

 答えるはずみで絵筆が布団に転がったが、ピシスは一向に気にする様子はない。布団にはもう随分と絵の具が染み付いていた。

「この病気に罹って手が痺れて絵筆が持てなくなった時、ぼくは何て不幸なんだと絶望したよ。ぼくには絵を描くことしかなかったからね。全人格を否定されたも同然だった。だから絵画を捨てないとぼくはおかしくなってしまうと思って、部屋中の絵という絵を処分して、絵筆を折ってパレットも割ったんだ。そうすれば少しは気が楽になるだろうと思ったんだ」

 前にリブラたちがお見舞いに来た時は、ちょうどその時だった。彼の部屋には絵画に思い起こさせる一切の物が消えており、ピシス自身も一日中読書に明け暮れていると語っていた。

「ところがその考えは間違っていた。ぼくが絵画を忘れることは、手が痺れて絵が描けないことよりもずっと辛かったんだ。分かるかい? 頭の奥からどんどん素晴らしい想像が沸き起こるのに、沸き起こる端から消していかなければならないんだ。ぼくは間違っていたんだ。描きたければ描けば良かったんだよ。
 そのうち足も動かなくなってきてね。このままでは寝たきりになって動けなくなってしまうと考えたぼくは、真剣にもう一度絵を描くことにしたんだ。すると面白いことに、いままでのぼくの絵よりも、いまこうやって筆を口にくわえて不自由な体を引きずって描いた絵のほうが何倍もいい物ができたんだよ」

 ピシスはそう言うなり貧弱な声を枯らして笑う。その姿は狂気と言うより他なかった。

「なんだか……元気そうだね、ピシス」

 リブラは圧倒されて見当違いの感想を述べる。ピシスはもう一度笑った。

「いままでで一番充実しているよ。カイト、悪いけど筆をくわえさせてくれ」

 カイトは言われるままに布団から絵筆を拾いピシスの口に入れる。絵画少年はありがとうと唇を動かした。

「体は動かないのかい?」

「うん。もう両手は完全に動かないし、感覚もなくなっている。いまは這って動くしかないんだ。喉もすぐに枯れるし耳も遠い、眼もきっとカイトより近眼になっているよ」

 満身創痍のピシスは喋りながらも筆を動かし、ひたすら絵を描いていた。

「でも頭の中と口はまだ平気なんだ。ぼくにはこの二つだけで充分だ」

「それで、どうしてこんな時間におれたちを呼び出したんだ?」

 コルブが魚カゴに入った二匹の魚を見ながら尋ねる。魚は主人の気も知らずに悠々と漂っていた。

「この部屋を見せたかったんだよ。それだけじゃ不満かい?」

 ピシスは振り向かずに答えた。

「別に不満じゃないけど、放課後でも良かったんじゃないのか?」

「へえ。コルブがそんなことを言うとはね。カイトと仲直りしてから授業が好きになったのかい?」

 ピシスに言われてコルブは黙る。カイトは少し恥ずかしそうな顔をした。

「しかしコルブには驚かされたよ。いきなりおれのことは諦めてくれ、と言われたからね。ぼくの、きみに対する美術的興味がそんな風に思われるとは気がつかなかったよ」

「その話はもう止めてくれ。おれは何のために呼んだのかを聞いてるんだよ」

 コルブは膨れ面で無理矢理話を止めさせた。ピシスは画板から顔を離して振り返ると、リブラを見てほほえんだ。リブラも複雑な心境のままほほえみ返す。するとピシスは笑顔を止めて、急に切なそうな顔になった。

「時間がないんだよ」

 ピシスはリブラに話しかける。リブラも笑顔を止めた。何も答えられなかった。

「……きみたちからすれば放課後なんてすぐに来るかもしれないけど、ぼくにとっては待ちきれないくらい長いんだよ」

「ピシス……」

「リブラ、カイト、コルブ」

 ピシスは三人を見回す。

「ぼくはもうすぐ死ぬよ」

 その言葉はあまりにも呆気なかった。三人はあらためて聞かされるまでもなく、きょう会った時からそれは分かっていた。だが実際に口に出されると、何倍にも重たく感じられた。しばらくは誰も口を開かなかった。それを否定することも、励ますことも、誰にもできなかった。ピシスが小さく笑った。

「って、夢で言われたんだ」

「夢?」

 リブラが聞き返した。

「そう、現実ではありえないから多分夢だったんだろうね。お前はもうすぐ死ぬって言われたんだ」

「誰に?」

 今度はコルブが聞いた。

「カストルとポルック」

「え?」

 リブラは驚いて声を上げる。カイトとコルブが不思議そうに見た。カストルとポルックと言えば、前に噴泡広場でケトゥスと一緒にいた双子の名前だ。

「ピシスも見えたのかい?」

「見えた?」

 ピシスは目をさらに大きくさせる。

「うん、カストルとポルックに会ったんでしょ?」

「会うも何も、カストルとポルックはそこにいる魚たちの名前だよ。ぼくが名付けたんだ」

「え?」

 リブラはピシスの示す魚カゴを見た。よく似た二匹の魚がカゴの周りをぐるぐると回り続けていた。

「魚が喋ったのか?」

 コルブが一匹を捕らえようと指を伸ばす。狙われたほうは必死になって逃げ回っていた。

「だから夢だと言ったんだよ」

 リブラは魚を睨み続けたが、やはりどう見ても双子には見えなかった。

「魚に死ぬって言われたからピシスは死ぬと思い込んでいるのか?」

 カイトが尋ねた。

「思い込みじゃなくて、そうなんだよ。体の痺れがどんどん進んでいる。これが心臓か脳にまで達したら、ぼくはおしまいだよ」

「でも……」

「カストルとポルックはね、こうも言ったんだ。生物が死ぬと、空に浮かんで星になる。夜空に浮かぶ無数の星は死んだ者が光っているんだ。だからあんなに綺麗なんだって」

「死はそんなに美しいものじゃない」

 カイトがそう言うがピシスは答えなかった。

「ぼくは死んで、星の世界へ旅立って行く。いや、魚たちはそれを星に還るって言っていたよ。それが『星祭り』の始まりなんだって」

「星祭り?」

 リブラが声を上げる。聞いたことのないお祭りだった。

「リブラには前に話したよね。あのお祭りのことだよ。あれは本当だったんだ。でもポラリスでのことじゃない」

 ピシスの話は常軌を逸している。彼が夢と現実の区別が付かなくなっているのは誰が見ても明らかだった。

「死ぬのが、怖くないのかい?」

 リブラは怖かった。他人ならまだしも自分の死なんて想像もできない。死に直面したピシスは、言動はおかしいが極めて落ち着いているように見えた。ピシスはしばらく無言で絵筆を動かしていたが、それを止めると小さく笑い、碧く大きな二つの眼でリブラを睨んだ。

「怖いに決まってるじゃないか!」

 その大声に他の三人は体を震わせた。

「怖いよ! もの凄く怖いよ! 段々体の感覚がなくなっていくんだぞ。目が見えなくなってくるんだぞ。怖くない訳がないじゃないか! だけど誰も助けてくれないんだ。誰にも助けられないんだ。ぼくは、きみたちと別れて一人で死ななきゃならないんだ。あした死ぬかもしれないんだ。だから急いで絵を描いているんだ。今夜死ぬかもしれないんだ。だから、だからいますぐきみたちに会いたかったんだ」

 ピシスは激しく咳き込む。絵筆が再び布団の上に転がった。リブラは即座に少年の元に駆け寄って抱きしめて背中をさすった。触れる手をためらうほど薄い。ピシスはしばらく咳き込むとやがて懸命に深呼吸を始めた。部屋中の水を吸い込むくらい深く。

「リブラ、怖いよ……」

 リブラの胸に頭を預けて、ピシスはつぶやく。小刻みに震えている。避けられない目前の死に捕らわれた少年は、ただ怖れるしかなかった。夢の話も、少年の恐怖を遠ざけてはくれなかった。

「……助けてよ、リブラ。ぼくを」

「……ごめんよ」

 リブラはさらに強くピシスを抱きしめた。カイトとコルブは無言で二人を見ていた。言うべき言葉が見つからなかった。やがてピシスは落ち着きを取り戻すと、首の力だけでリブラを押しのけた。

「ありがとう。大丈夫だから」

 顔を上げたピシスは悲しそうに笑っていた。

「離れてくれ、ぼくは絵を描かないといけない」

 ピシスは再びカイトから絵筆を口で受け取る。リブラがわずかに離れると、少年は再び絵に向かった。ピシスは絵を描かなければいけなかった。この世界にいた証拠を残しておきたかった。三人は黙ってその様子を見ていた。



(第8章(3)へつづく)