the shadow of silver
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母が亡くなった日は、わたしの誕生日だった。

丘で出会った彼は、おだやかな笑顔を見せる人だった。

いつもの夏、いつもとちがう夏。

ベッドに眠るあの人は、ずっと死なない、死人だった。


◇ 彼とわたしの静かな夏 ◇

第01話

第02話

第03話

第04話

第05話

第06話

第07話

第08話

第09話

第10話

第11話

第12話

第13話

第14話

第15話


第01話

<七月十五日>

 透明感のある闇の中に浮かぶ下弦の月光が紺色のカーテンの隙間から入り込み、青白い彼の顔を照らす。彼はそれでも白い瞼を開くことなく、じっとその光を受けていた。

 冷たい夜の風がカーテンを揺らし、彼の髪と、月光によって作り出された彼の影をなびかせる。夜の風には何かが含まれている。昼間の風とは違う、人の心に直接触れる何かを。彼はその風に触れながらも、その心もその身も動かすことなく止まっていた。

 人も風も、月さえも動き続けるこの世界の中で、ただ一人、彼だけが完全に止まり続けていた。

 永遠に。


<二十六夜の月>

 母の死に涙を流さなかったのは、わたし自身にとっても意外なことだった。

 嫌いだったわけじゃない。ごく一般的な母娘の関係だったと思う。目を閉じれば母との様々な良き思い出も目に浮かぶ。でも泣けなかった。そういえばもうずいぶんと泣いていない。わたしはそれほど冷たい人間だったのだろうか? 集まった親戚たちからは、お母さんが亡くなったというのに、とても気丈で立派な娘さんだと褒められた。そうなのだろうか? こんな時に泣けないなんて、ただの薄情者のような気がする。父はずっと母のそばに座ったまま動かず、そして時折、思い出したようにさめざめと涙を流していた。実際に思い出しているのであろうそんな父が、とてもかわいそうに思えた。それでも、わたしは泣けなかった。ただ頭のカレンダーにきょう、七月十七日に母の命日が機械的に追加されただけだった。

 七月十七日、わたしの二十歳の誕生日でもあるこの日は、母が死んだというのに晴天だった。

 何もしなくて良いからね。そう言われたから一人で家を出て、『例の丘』へと登った。いつのころからか、お気に入りの場所として心の中で決めた丘の上。そこからはわたしの家も含めた乱雑な地方都市が一望できた。灰色のビル、犬小屋のような家、意味のないシンボルタワー。見慣れた景色だけど、見る度にビルの数が増えていた。

「わしがここに来た時はな、なんもあらへんかったんやで」

 関西生まれの祖父は、この丘から街の景色を見るたびに誇らしげに言っていた。そう、この場所を教えてくれたのも祖父だった。祖父は関東産まれの祖母と結婚し、この街に移り住み、父が産まれた。父は標準語と関西弁の混じった言葉を話し、この街で産まれた母と結婚した。そして、わたしは標準語で言葉を覚えた。

「わしのこさえた村や、これからも、ぎょうさん人が集まりよるで」

 祖父の口調を真似てそうつぶやいてみる。アクセントが違っていたような気がしたけど思い出せなかった。夏草の生い茂る地面に腰を下ろす。ズボンが汚れるなと思ったけど気にしないで放っておいた。もうそれをとがめる母もいない。

 遠くからゴーン、ゴーンと言う音が断続的に聞こえてくる。またビルを建てているのだろう。そういえばここから見えるビルは皆、祖父が亡くなってから建てられたものだ。この街は祖父の死とともに急速に発展した気がする。たしかに沢山の人間が移り住んできた。しかし祖父は、こうなることを望んでいたのだろうか? 祖父はこの風景を見ても、わしのこさえた村だと言うのだろうか? わたしの家も見える。何年も何年も、ここから見続けている屋根瓦。しかしそこにはもう祖父も、そして母もいない。なのにわたしは、涙を流せなかった。

 夕方になりそろそろ帰ろうと思って、草むらから腰を上げて何気なく辺りを見回す。すると、やや離れた所で同じように街を見下ろしている男の人に気づいた。彼の方もわたしの気配に気づいたのか、ふいにこちらを振り向く。歳は二十代後半だろうか、この暑い中に真っ黒のシャツとズボンを身に着けた彼は、これまた真っ黒でやや長めの髪を風になびかせながら、銀縁の眼鏡をかけた白い顔をわたしの方に向けた。そして穏やかな笑みを浮かべてから、また街の方を向いた。

「何を、見ているんですか?」

 近づいて声をかけてみる。彼はもう一度振り返って、また微笑んだ。

「街を見ているんですよ」

 彼は都市を見下ろしながら話す。痩せた体の割にはやや低い声をしていた。

「街は生きています。朝には目覚め、夜には眠ります。人をどんどん取り込んで大きく成長していきます」

「面白いですね」

 そう言ってみたものの、それが都市に対してなのか、この男の人に対してなのかは自分でも分からなかった。たぶん両方なのだろう。

「学生さんですか?」

「はい、大学生です」

「今日は、お休みですか?」

「今朝、母が亡くなりましたので」

 わたしがそう言うと、彼は少しその細い目を大きくさせて、「そうですか」 とだけつぶやいた。その言葉は決して素っ気ないものではなく、同情を少し含んでいるように思えた。

「ぼくもあなたも、あなたのお母さんも、生命体はいずれ死ぬ運命にあります。いや、生命体に限ったことじゃない。この街だって、いつかは死んでしまいます」

「……そうですね」

 わたしは彼とともに街を見つめながら相槌を打つ。夕方の街は寝る準備をする子どものように慌ただしい。

「もっとも、そう割り切れないから辛いものですが」

 彼はそう言って軽く目を伏せた。

「……ごめんなさい。暗いこと話してしまって」

 ふと気づいてそう謝る。

「いえ、ぼくが尋ねたことですから」

 彼は静かに返した。

「あの、理科の先生か何かをやっているんですか?」

「え、どうしてですか?」

「話が、そんな感じがしたので」

 彼の話には生物学の先生のような感じが含まれている気がする。

「違いますよ。近いですけどね」

「近い?」

「医者の次男坊ですよ。」

「じゃ、お医者さんですか?」

「いえ、ぼくは違いますよ。基本的には無職です」

「基本的にって?」

 これ以上突っ込んで聞いても良いものだろうか。

「まあ、色々と。それこそ生物学的な研究もやっています」

「どんな研究ですか?」

「それはちょっと、説明しにくいものです。おや、もうこんな時間だ」

 彼は眼鏡を整えると、男の人の割には細い手首に巻き付いた腕時計を見る。つられてわたしも自分の左手首を見る。アナログ時計の針は六時半ちょうどを示していた。知らない内に随分と日が長くなったものだ。若干冷え始めた風が頬を撫でた。

「興味があるのなら一度ぼくの家へお越しください。あそこにありますから」

 彼はそう言って街の方向を指さす。しかしその指がどこを示しているのか分からなかった。

「じゃ、ぼくはこれで。ああ、ぼくは片町(かたまち)といいます。それでは」

「あ、わたしは田辺(たなべ)、田辺静(しずか)っていいます」

 すでに丘を降り始めていた彼、片町はわたしがそう名乗った瞬間、驚いた表情でこちらを見た。でもすぐに元の微笑みに戻ると、軽く会釈をして去って行った。何だろう。片町の態度の意味が分からないまま、彼の黒い背中が街に取り込まれて行くのをじっと見つめていた。



(第02話へつづく)