the shadow of silver
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母が亡くなった日は、わたしの誕生日だった。

丘で出会った彼は、おだやかな笑顔を見せる人だった。

いつもの夏、いつもとちがう夏。

ベッドに眠るあの人は、ずっと死なない、死人だった。


◇ 彼とわたしの静かな夏 ◇

第01話

第02話

第03話

第04話

第05話

第06話

第07話

第08話

第09話

第10話

第11話

第12話

第13話

第14話

第15話


第03話

<三日月>(後)

 片町月彦の家は車も通れないほどの路地のさらに奥、まさに袋小路の場所に建っていた。

 周りの家と比べるといくらか新しく、やたらと壁が白い。表札は掛かっていなかったけど、郵便受けにはたしかに『片町月彦』という名前が一つだけ書かれていた。

 嫌がらせのように照りつける太陽の下、わざわざ探してまで辿り着いた家。でもここまで来ておきながら呼び鈴を押すのをためらっていた。そもそもわたしと月彦とは、例の丘で一度出会っただけに過ぎない。しかも話したことと言えば取り留めのない内容ばかりだった。わたしの方としては母が亡くなった日に出会った人間として印象深いけど、月彦の方はもう忘れてしまっている可能性が高い。家の場所もとりあえず教えてはくれたけど、あれは単なる社交辞令の一つであって、まさか本当に尋ねて来るとは思っていなかっただろう。

 そう考えている内に、彼の実家の病院にまで行き、彼の兄に会ってまで居場所を突き止めた自分が、非常に失礼で子供っぽい奴のような気がして、なんだか情けなくなってきた。やはりここは帰っておこう、今なら片町の兄弟もわたしの正体を知らないはずだ。そんなことを考えるとまた情けなくなる。炎天下の中で立ちつくし、背筋に一滴、汗が伝う。帰ろう。そう決心して月彦の家に背を向けた。

「おや、田辺さん。本当に尋ねて来てくれたんですね」

 振り返った先には、片町月彦が立っていた。



「いや、申し訳ないです。ちょっと出かけていたもので。呼び鈴押して待ってくれていたのですか?」

 呼び鈴すら押していなかったけど言わなかった。月彦に通された応接間らしき部屋は、ソファとテーブルと本棚しかなかった。他にもこの家にはもう何部屋かあるようだけど、想像していた男の独り暮らしよりも整頓されていた。もっともこの部屋だけかも知れないけど。

「ちょっと待っていて下さい。今コーヒーを淹れてきますから」

 初めて会った時と似たような黒いシャツとズボンを着た月彦は、同じように穏やかな微笑みのまま部屋から出ていった。ソファに小さく腰かけたわたしは緊張を紛らわすように部屋を見回す。部屋の中は大きな本棚以外には、壁に掛かった丸い銀色の時計くらいしか目に付かない。時計の針はほぼ二時半を指していた。

 本棚の中にぎっしり詰まった本は洋書が多いようだけど、タイトルからして見たこともない英単語が使われていた。その他の日本語の本ですら『大脳皮質の機能局在の研究』などといった、本屋の隅で埃を被っていそうな本が並んでいる。中には『経皮経管的冠動脈内血栓溶解療法』という、中身が中国語で書かれていても不思議でないタイトルの本もある。そうこうしている内に月彦がドアを開けて戻って来た。

「ぼくは独りで暮らしているものですから、お菓子というものがあまりありませんので」

 そう言って月彦はふたつのコーヒーカップと、そこら中から寄せ集めたようなお菓子を盆の上に並べて持ってきた。月彦が淹れてくれたコーヒーは驚くほど味わい深く、これなら帰りに代金を請求されても素直に払ってしまえると思った。そのことを月彦に告げると、彼は嬉しそうに笑い、コーヒーが好きなのですよと答えた。その微笑みから彼の兄を思い出し、どうせ黙っていても知られるだろうから、自分からこの家まで辿り着いた経緯を話した。

「実はこの家が分からなくて、失礼だとは思ったんですが片町総合病院で尋ねてしまいました。ごめんなさい」

 わたしがそう言うと月彦は眼鏡の奥の細い目をやや大きくさせた。

「え、父に会われたのですか?」

「いえ、お兄さんに」

「ああ、それは良かった」

「良かった?」

「ええ、もし父に会われていたなら、後々ぼくが何か言われますから」

 月彦はそう言って笑った。確かに、仕事場にいきなり息子の所在を聞きに来る女が現れたら、彼の父も何事かと思うことだろう。そうなる寸前であったけど。

「もう、お母さんのことは済んだのですか?」

 月彦は笑いを止めて聞く。

「はい。次は四十九日に何かあるらしいですけど、わたしの方はもう整理がつきました」

 実際に整理がついたのかどうかは分からないけど、わたしは自分にもそう言い聞かせた。

「そうですか。お母さんはおいくつだったのですか?」

「四十五歳でした。」

「早いですね。さぞかし落胆されたでしょう。」

「わたしよりは父の方がショックは大きかったと思います」

「そうですね」

 月彦は自分の細い顎に手をおいて答えた。

「月彦、さんのお母さんは御健在ですか?」

 彼を月彦さんと呼ぶ。兄の陽介を知ったからだけど、それはそれでずいぶんと馴れ馴れしいような気がした。月彦もそう思ったのか、少し驚いた顔を見せた。

「え、ええ。元気です。病院で婦長をしています」

 なるほど彼の母親も病院関係の仕事をしているらしい。それでは月彦も実家に居辛い訳だと勝手に納得していた。それにしても彼は無職らしいが、一体毎日何をしているのだろうか? そう考えた時、陽介の言葉を思い出した。

「そういえば、何かの研究をしていると言っていましたね」

「ええ、まあそうです」

 月彦はやや眼鏡を整えてからそう答えた。

「何をしているんですか?」

「ええと、説明が難しいですね。見ていただいた方が早いと思いますが、見ますか?」

 確か、彼は『生物学的な研究』と言っていたし、本棚に並んでいる本を見た限りでもそういう方面の研究なのだろう、なら説明された所でついて行けないかもしれない。

「見ても良いんですか?」

「もちろん構いませんが、ただ……」

「ただ?」

「ただ田辺さんが、お母さんが亡くなられたことについて、まだ落ち着いておられないのなら、あまりおすすめできません」

 一体何の研究をしているのか、皆目検討もつかなかった。

「母のことは大丈夫です」

 きっぱりとそう言う。母の死に泣くこともできなかったわたしだ。しかも、今は月彦の研究に興味をひかれている。その時点でもう立ち直っているのだろう。

「そうですか。じゃあ見ていただきましょうか」

 月彦はそう言って立ち上がる。わたしも残りのコーヒーを飲み干して後に従った。



 月彦はわたしを、おそらく家の一番奥と思われる部屋へ案内した。この家は彼ひとりが住んでいる割には広い。そのことを廊下で月彦に告げると、実家はこの何倍も広いですよ。ぼくは一部屋あれば充分だったのですが、親が許してくれなかったんです。と言った。

 月彦は奥の部屋のドアの前に来て、こちらを振り返った。

「さあ、こちらです」

 わたしは黙ってうなずく。この奥が研究室なのだ。どんな部屋なのだろう。大学の図書室のように本とパソコンに埋め尽くされているのだろうか? それとも理科室のように模型や試験管が並んで、消毒液の匂いが充満しているのだろうか? わたしは期待しながら月彦の開けたドアの先へと足を踏み入れた。

 部屋の中は先ほどの応接間と同じように整頓されており、本棚と丸いテーブルが一台と折り畳み式のパイプ椅子が何脚かと、あと窓際にベッドが一台あった。しかしわたしが本棚や椅子があるのに気づいたのはずいぶん後になってからのことだ。なぜなら、ベッドには人が眠っていたからだ。

「暑いですね」

 月彦はそう言うとテーブルの上にあるリモコンを取りスイッチを押す。その間もわたしは入り口のドアの前で呆然と突っ立ったままだった。

「研究というのは……」

「ええ、彼です」

 月彦はそう言ってベッドで眠っている男を指した。男は先ほどまで暑かったこの部屋で、ずいぶんと厚い布団を被って眠っていた。歳はわたしと同じくらいだろうか。肌の色が白く、まるで作り物のようにも見えた。髪はそれとは対象的に漆黒という表現がぴったりと言えるほど黒く長い。閉じられた瞼から見える睫毛は男の割には長く、全体的にかなりの美形だと感じた。顔のパーツの一つ一つが人形のように綺麗で、何だか負けた気分にもなる。月彦が『彼』と紹介しなかったら、女だと思ったことだろう。それにしても、この男が研究対象とはどういうことなのか。

「何か、ご病気なんですか?」

 肌は白いし、布団から出ている腕は痩せすぎている。さらにわたしや月彦が同じ部屋で話をしているのに、目覚めるどころか寝返り一つ打たない。それらを考えると確かに病人とも思えるけど、どうも違うような気もする。そう、綺麗すぎるのだ。重篤な病に冒された少年や少女が美しいのは映画や漫画だけの話だ。本当の重病人は外見的にも痛々しい顔付きや体付きをしているものだ。

「彼の目が開くことはありません」

 月彦はきっぱりと、衝撃的な告白をした。

「……脳死なんですか?」

 乏しい医学的知識を総動員させて結論を導き出す。

「違いますよ」

 月彦はその答えを一蹴した。

「一般的に脳死というのは、脳幹を含めた脳の全機能が完全に停止した状態、その上で心配機能の維持が可能な状態を示します。脳は働いていませんが心臓は動いています。また脳幹が停止すると自発呼吸は不可能になるので、人工呼吸器の使用が必要になります」

 月彦の話を聞いて、ベッドの彼と部屋を見回す。どこにもそんな機器は見当たらない。そもそも脳死状態の人を寝かせておくにはあまりにも殺風景な部屋だった。

「それじゃ……」

 この男は、何なのだろう?

「もっと近付いてみて下さい」

 月彦に促されてさらに枕元に近づく。肌荒れ一つしていない彼の顔が羨ましく思えたけど、何か違うような気がした。何だろう。わたしとは違う何かが、そう、彼は呼吸をしていないのだ。どういうことだろう。いくら人形のような顔をしているからといっても、彼が人間であることは間違いない。

「握ってみて下さい」

 月彦は彼の細い腕の手首を掴んで持ち上げ、わたしに差し出した。わたしは言われるままに彼の手首を握った。冷たい。彼の腕からは体温が全く感じられない。そして、

「脈が、無い?」

「そうです」

 今度はもう乏しい医学知識を総動員させなくても分かる。

「死んでいるんですか?」

 というか、死んでいるに違いない。わたしはクーラーのせいかもしれないけど、寒気を感じた。

「そう思いますか?」

 ところが月彦は意外なことを言った。

「違うんですか?」

「死んでいれば話は早いです。このまま火葬場で焼いていただいてお墓に入れるといいでしょう。でも彼は違います。このように全く死体らしくないのです」

「そんな、でも生きてませんよ」

 わたしは母の死体を思い出す。その姿はまるで眠っているようだった。

「そう、彼は間違いなく生きていません。しかし死んでもいないのです」

 月彦は静かに言った。

「彼はこの夏のさなかだというのに腐ることもないし、皮膚も内臓も血液も全く損傷していません。言うなれば彼だけ、時間が流れていないのです」

「そんなこと、あり得るんですか?」

「あり得るも何も、事実ここにいるのですよ」

 月彦はそう言うと微笑みかける。何なんだ、この人間は。いや、人間なのか?

「……こ、この人は、いつからこんな状態なんですか?」

「わたしが確認できた範囲では、百年以上前からです」

 信じられない。死んだ母、いや死んだ祖父が産まれる前から、彼は止まっているのだ。

「これがわたしの研究です。はっきり言って何一つ分かっていませんが」

 と言って月彦は銀縁の眼鏡を整えた。わたしは何も言えなかった。何が何だかさっぱり分からない。この人物も、そしてこんな『物』と一緒に住んでいる月彦も理解できなかった。今まで感じていた月彦へのわずかな好意というか、憧憬のようなものが一気に消し飛んだ。彼の眼鏡を直す仕草も怪しげに見えて、例の微笑みも薄気味悪く思えた。

「帰りますか?」

 わたしの心を読んだかのよう月彦が話しかける。何も言えず、うなずくことしかできなかった。

「じゃ、そうしましょう」

 月彦は微笑みながら部屋のドアを開けた。なぜ笑えるのか。わたしは震えているというのに。玄関で何か、家に上がり込んだ礼を言ったけど、何を言ったのか自分でも分からない。ただ月彦はそれを聞くと、どういたしましてと答えた、その表情は少し残念そうに見えた。玄関のドアを開けると夏の夕方の生暖かい風が入り込んで、少しだけ現実感を取り戻す。我に返ったようにもう一度月彦を見た。

「……あの人に、名前はあるんですか?」

 そう尋ねると、月彦は少し困った顔をした。

「……わたしが初めてあなたにお会いした時、あなたの名前を聞いて驚いたことには気づかれましたか?」

 確かそんなことがあった。わたしが自分の名前を、田辺静と名乗った時に、月彦は驚いて振り返ったのを覚えている。

「彼は、京橋 静(きょうばし しずか)という名前です」

 それを聞いたわたしはしばらく呆然としてしまい、そして次の瞬間、なぜだか分からないけど、月彦の家から一目散に走り出していた。走りながら激しい嫌悪感を覚えた。あれが、あの人間ではない『物』が、わたしと同じ名前だなんて。わたしは自分の名前を付けたと聞いている祖父を激しく恨んだ。

 そして、もうあの家には行かないことを心に誓って家まで走り続けた。



(第04話へつづく)