the shadow of silver
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母が亡くなった日は、わたしの誕生日だった。

丘で出会った彼は、おだやかな笑顔を見せる人だった。

いつもの夏、いつもとちがう夏。

ベッドに眠るあの人は、ずっと死なない、死人だった。


◇ 彼とわたしの静かな夏 ◇

第01話

第02話

第03話

第04話

第05話

第06話

第07話

第08話

第09話

第10話

第11話

第12話

第13話

第14話

第15話


第04話

<上弦の月>(前)

 それから三日後、昼過ぎまで寝ているという我ながら怠惰な生活をしていたわたしは、朝食か昼食かよく分からない食事を済ませて、身なりをそれなりに整えると、図書館へ出かけることにした。それは別に勉強をしようという訳ではなく、ただ図書館は冷房がよく効いているからだ。やはりわたしは怠惰らしい。家でクーラーを付けて寝転がっているよりは、図書館で本でも読んでいる方がよほど勤勉で節約的であるとは思うけど、自他共に認める仕事人間の父に言わせると五十歩百歩らしい。

 外へ出ると直射日光とアスファルトの照り返しのせいで異常に暑く、わたしは五十歩も百歩も歩かない内にその辺の喫茶店にでも入ってコーヒーでもすすりたい気分になった。コーヒーのことを考えると、この間月彦の家で飲んだコーヒーの味を思い出す。月彦は今日は何をしているのだろう、まだあの気味悪い人間と過ごしているのだろうか。

 あの時わたしは何だか分からないままに月彦の家から逃げ帰ってしまったけど、三日経って落ち着いて考えてみると、ずいぶんと失礼な去り方をしたように思えてきた。月彦は『あれ』の研究をしているのだ。それに対してあんな接し方をされたら、月彦もきっと気を悪くしたことだろう。謝らなければならない。そう思ったけど、もはや次に会う機会など無いようにも思えた。少なくとも月彦の方から会いに来てくれることはない。彼はわたしの家を知らないからだ。そうするとわたしの方から行かなければならなくなる。でも、彼がいる。京橋静が。

 図書館の手前では杖をついたお爺さんがきょろきょろと辺りを見回していた。左手に杖を持ち、右手には何やら紙切れを持っている。どこからどう見ても、このお爺さんは道に迷っている。この暑い中で大変だなと思いながら見ていると、ふいにお爺さんがこちらを向いた。わたしとお爺さんは、たっぷり三秒間見つめ合う。クーラーの効いた部屋で本を読むという怠惰な時間が、わたしにはまだ与えられそうに無いと確信した。

「お爺さん、どうしましたか?」

 諦めて、こちらから話しかける。

「道に迷ってのう」

 お爺さんはしわがれた声で、予想通りにそう答えた。そう高くないわたしの身長よりも、お爺さんはさらに低く、禿げ上がった頭は直射日光の直撃を受けていた。

「どこへ行くつもりなんですか?」

「友人の家に行こうと思うてな。じゃが久々なもんで迷ってしもうた」

「この近くなんですか?」

「そのはずじゃが、この地図が全然分からん」

 と言ってお爺さんはわたしに地図を差し出す。どこかで見たような紙だと思いながらその手書きの地図を見てわたしは驚いた。そこに描かれているのは間違いなく、片町陽介の手による『月彦の家への絶対に迷う事のない地図』だった。

「ああ……」

 わたしは思わずそうつぶやく。ロマンチックに言えば『運命』というやつだ。

「分かるじゃろか?」

 お爺さんは上目遣いでわたしを見ながら聞いた。皺を持ち上げた眼は、割と大きい。

「ええ、たぶん」

 というか絶対。なんせ数日前に訪れたばかりの場所なのだから。説明するにはやや細い道だし、この地図を見ても分からないのなら一人ではまず辿り着けないだろう。この炎天下の下でこのお爺さんを放っておく訳にも行かなかった。

「じゃ、一緒に行きましょう」

「すまんのう」

「いいんです。わたしもこの人の家に用事がありますから」

 こうなったらこの間のお詫びをしに行こうと思った。

「ほう。知り合いかね。そりゃ助かる」

 お爺さんは顔をくしゃくしゃにして笑った。



「友人なんですか?」

 安物だがお気に入りのスニーカーに溶けたアスファルトが引っ付くような感覚を抱きつつ、わたしはお爺さんにそう尋ねる。整列した街路樹からは、まるで木が暑さで叫んでいるかのように、ヒステリックな蝉の声が絶え間なく聴こえていた。

「そうじゃ。もう長いつき合いの友達じゃ」

 お爺さんはゆっくりとした足取りでそう言う。老人の年齢は分かり難いけどそれでもこの人が相当な歳であることは分かる。曲がった腰、皺だらけの顔と首、聞き取り難い声。一体こんなお爺さんと月彦はどういう友達なのだろう。友達と言うからには親類でもあるまい。

「どういう友達なんですか? 月彦さんとは」

「月彦君は友達というよりは孫みたいなもんじゃな。わしが友達と言っておるのは、静のことじゃよ」

「静って、あの眠っている?」

 わたしは自分と同じ名前の、あの奇妙な人間を思い出した。正確には彼は眠っているのでは無く、止まっているのだが。

「左様」

「でもあの人は」

 死んでいる。そう言いたかったけど、お爺さんが友達と呼んでいる以上、そういう言葉は失礼な気がした。しかし、

「そう、死んでおるな。じゃが、静の顔を見ておるとな、奴から何か分かる気がするのじゃ」

 お爺さんはそう言うと立ち止まり、胸のポケットから煙草とマッチを取り出した。

「何か分かるって、長生きの秘訣とかですか?」

 そう尋ねると、お爺さんは煙草をくわえたまま笑った。

「そうじゃない。今更長生きしたいとも思わんし、静のようになりたいとも思わん」

 お爺さんは煙草に火をつけると再び歩き始めた。

「そうですよね。ちょっと気味悪いですよね」

「いや」

 と言ってわたしの方を向いた。

「あんたは静を、かわいそうだとは思わんか?」

「かわいそう、ですか?」

「そうじゃ、静は生きてはいない。わしは月彦君やその親父みたいに学がないから、どこまでが生きていて、どこからは死んでいるかは良く知らんが、静は生きていないのは分かる。しかし奴は完全に死んでもおらんのだ。死んだらどこへ行くのか、どうなるのかはわしもまだ知らん、極楽があるかどうかも知らんが、奴はそこへも行けんのじゃ。こっちとあっちの間で死に続けておるんじゃ。わしにはそれがかわいそうに思えてな」

 わたしはその言葉に母を思い浮かべる。母は、極楽だか輪廻転生だか知らないけど、あっちの方へ行ってしまった。それはこっちに残っているわたしや父にとっては悲しくもあるけど、母があっちへ行って幸せになっていると思うと気は楽になった。人間はそう思うから好きな人の死を乗り越えて行けるのだろう。母は幸せになっていると思いたい。しかし静はそうではない。こっちへもあっちへも行けないのだ。それはどう考えても幸せだとは思えなかった。

「じゃが、わしはかわいそうだから奴に会いに行ってる訳じゃない。もうわしにとってはたった独りの友達だからじゃ」

 煙を吐きながらお爺さんはそう言った。

「たった独りなんですか?」

「そう、子供や孫はおるがな。他の友達はみんな逝ってしまったか、よそへ行きおった。人だけじゃない、この街も、わしにとってはもはや他人になってしまった。それが悪いことは思わん、じゃが寂しいといえば寂しい。おかしな話じゃが、わしと話が合うのはもう静だけになってしまったんじゃよ」

 話さない彼と何の話が合うのだろうか? わたしには分からなかった。しかし話によるとこのお爺さんは、ずいぶんと前から彼のことを知っているらしい。どういう知り合いなのか、どうして月彦の家に彼がいるのか、その辺りのことも知りたかったけど、それを聞く前に月彦の家に着いてしまった。

「おお、ここじゃ。」

 お爺さんはそう言うとためらいなく月彦の家の呼び鈴を押した。しばらく後に『はい』という聞き慣れた月彦の声がドアの向こうから聞こえ、廊下を歩く足音が近づいてきた。でもお爺さんにはそれが聞こえていないのか、何度も呼び鈴を鳴らし続ける。そのため月彦は何度も返事を続けなければならなかった。ドアが開くと、月彦が現れた。

「おや、長尾(ながお)さん。いらっしゃい。それに田辺さんも」

 長尾と呼ばれたお爺さんは顔を縮めて笑った。わたしは、普段と全く変わらない月彦の挨拶に戸惑っていた。



「よう、静」

 静のいる部屋に通されたわたしたちはそれぞれ折り畳みのパイプ椅子に腰かけた。長尾老人は静の顔の前まで椅子を引っ張ってから座り、彼にそう話しかけた。もちろん静は答えない。わたしはその後ろに座った。月彦はまたコーヒーを作っているらしい。部屋には既に冷房が入っている。折り畳みのパイプ机に分厚い洋書が置いてある所を見ると、月彦は今までこの部屋にいたようだ。

 京橋静は、初めて出会った時と同じく、止まったままだった。その表情からは苦悩も憤りも感じない。笑っている訳でもないけど、安らかに見えた。改めて見るとあまり気持ち悪くはない。死体という感覚がないのだ。もの凄く精巧に造られた人形。そんな感じがした。

 彼は、止まる前まではどんな生活を送っていたのだろうか? 産まれた時から止まっていた訳ではないだろう。それならここまで成長しないはずだ。きのう月彦は、静は百年以上前から止まっていると言った。死んだ祖父、八十歳ちょうどでで亡くなったけど、その祖父が産まれる前から止まっていたことになるかもしれない。なぜ止まってしまったのだろうか? 望んで止まったのだろうか?

 月彦は盆に湯呑みとあり合わせの菓子を載せて入って来た。彼はパイプ机にその盆を置くと、自分のためにパイプ椅子を開いて座った。長尾もこちらを向くと、椅子を引きずって机の前に寄せて座った。

「どうぞ、ご遠慮なく」

 月彦はそう言ってすすめる。あのコーヒーを期待したけど、湯呑みの中に入っているのは緑茶らしい。きっと長尾老人に合わせたのだろう。彼はそういう細かい所に気が利いていた。

「便所を借りるぞ」

 長尾はそう言うと立ち上がり、ノロノロと部屋から出て行く。月彦が動かない所を見ると、長尾はこの家の勝手を知っているらしい。

「長尾さんを案内してくれたのですか?」

 月彦はわたしを見てそう言った。

「図書館の前で困っているみたいでしたから」

 やや緊張しながら答える。月彦は先日の一件で気分を害しているようには見えず、ありがとうございます、と自分事のように礼を言った。

「あの、この間はすみませんでした」

 わたしは先手必勝で言った。

「いえ、わたしの方も申し訳ありません。いきなり静を見せてしまって」

 といって月彦は頭を下げた。

「いえ、あの、あの時はちょっと気味悪く思いましたけど、今は、その、馴れたと言うか、なかなか素敵だなと……」

 何が言いたいのか分からない。

「そうですか」

 月彦はそう言って嬉しそうに微笑んだ。



(第05話へつづく)