the shadow of silver
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母が亡くなった日は、わたしの誕生日だった。

丘で出会った彼は、おだやかな笑顔を見せる人だった。

いつもの夏、いつもとちがう夏。

ベッドに眠るあの人は、ずっと死なない、死人だった。


◇ 彼とわたしの静かな夏 ◇

第01話

第02話

第03話

第04話

第05話

第06話

第07話

第08話

第09話

第10話

第11話

第12話

第13話

第14話

第15話


第06話

<七月二十六日>

 闇夜の中でひとりの人間が眠っていた。

 止まっているのではない、眠っているのだ。

 もうずいぶんと老人だ。

 先程まで苦痛に顔を歪めていたが、今はそれが嘘のように穏やかな寝息をたてていた。

 老人はもう、『こっちの世界』では数えられる程しか眠られないことを知っていた。『あっちの世界』へ行くからだ。見たこともない世界。『こっちの世界』にいる限り、決して知ることのできない世界。しかし老人はそれに不安を抱くこともなく、むしろ期待するように、穏やかに今を眠っていた。

 老人は信じていた。『こっちの世界』と『あっちの世界』の狭間に、彼がいることを。老人の、もはやたったひとりの友人である彼が。

 闇夜の中でひとりの人間が眠っていた。

 今日は、月は見えなかった。



<望月>(前)

 八月に入り、いよいよ大学も夏休みに入った。これから九月後半まで続く夏休みをどのように過ごそうかと考えてみたけど、結局友達と買い物に行ったり、家でゴロゴロするといった怠惰な生活になることは間違いなさそうだ。まあ夏休みというものは、勉強や仕事をするには暑すぎるから設けられているのだから、怠惰な生活を送るのも理にかなっている。と、自分に言い聞かせたけど、例によって父からは非難を受けた。

 三度目に月彦の家に訪れたのは、そういう生活を送っている時だった。月彦に会いたいと思ったのは当然だけど、なぜか京橋静にも会いたいと強く思えたのには我ながら驚いた。何も話さない、少しも動かない静だが、なぜか頭の一角を占領されてしまったような感じがする。恋愛感情とは思えない。いくら美しい顔をしていても、ずっと『止まりきり』の、しかも祖父より年上の彼に恋心を抱くほどロマンチストではない。そうすると、これは興味というものなのだろうか。それもどこか違うような気がする。

 そうだ、月だ。夜、月を見ると何だか心が透き通り、まるで別の世界にいるような気分になる、空に月が浮かんでいることが、ひどく奇妙で、納得できなく思えてしまう。それが満月に近ければ近いほどその不条理な気分は増して、現実と非現実の境界が歪んでしまい、この世界がとても美しく、魅力的なものに映る。静にはその月と同じ力を持っている、とは思った。でも、わたしが月に抱く感情も、静に対する感情も、もしかしたらわたしだけなのかも知れない。それならなかなかのロマンチストだ。

 月彦の家も三度目となるともう地図がなくても辿り着ける。それにしてもわたしは月彦の電話番号を知らないので、毎回いきなり訪れることになっていた。今日も快晴で、空には入道雲が浮かんでいる。そして、もう世界はダメになるんじゃないかと思えるほど暑かった。ハンカチで汗を抑えながら、これで月彦が不在だったらひどく間抜けだなと思った。でも、彼に限ってそんなことはないような気がした。

 月彦の家のドアまで辿り着き、さて呼び鈴でも押そうかと思ったその時、突然家のドアが開いた。月彦が出てくるものと思っていたら、驚いたことに見知らぬ女が現れた。わたしよりも若干年上に見えるその女は、見た目の若さにしては落ち着いていて、全身から高貴な品が漂っているように感じられる。長い髪は黒く艶やかで、肌の色はそれと対照的に白い、眼はやや細く伏し目がちで、鼻も高過ぎず低過ぎず、口は小さく、薄く口紅がひかれている。着ているものも地味だけど趣味がよくて、スタイルもよくて背もそこそこに高い。まさに日本美人のサンプルのような人物だった。

 わたしはただ口を開け、彼女の動きを見ている。彼女はゆっくりと、音を立てないようにドアを閉めると、わたしの方を振り返り、軽く頭を下げた後、日傘を開けて家から遠ざかって行った。わたしはその後ろ姿をじっと見つめていた。女性は夏の熱気に揺れる空気に溶け込むように、わたしの視界から見えなくなった。

「おや、田辺さんじゃないですか」

 呼びかけられて振り向くと、ドアの隙間から月彦が顔を出していた。



「長尾さんの具合はどうですか?」

「あまり良くありませんね。まだ病院にいます」

 わたしは初めて月彦の家に訪れた時と同じ味のコーヒーを飲む。かたわらの静は相変わらず止まっていた。

「あんなに元気そうだったのに」

 一度しか見ていないけど、そう具合が悪そうには見えなかった。

「もう高齢ですからね。色々と悪い所も出てきます。一度倒れると、若い人ほど回復も早くないのですよ」

 月彦は残念そうな顔でコーヒーに口を付けていた。わたしとしては、失礼だが長尾老人よりも先程の女の方が気になっていた。月彦とはどういう関係なのだろう。どうやら先程までこの家には、静はともかく、月彦とその女の二人しかいなかったようだ。もちろん無職の月彦には仕事仲間はいないはずだ。なら、友達か。いや、それよりも恋人と考えた方が納得できる気がした。

「さっきの女の人って、月彦さんの恋人さんですか?」

 やはり聞いてみるしかない。どうもわたしのこういう癖は一生治りそうもない。遠回しな会話はまどろっこしい。

「いえ、違いますよ」

 月彦はあっさりと否定して、ひとまず胸を撫でおろした。胸を撫でおろした?

「じゃ、お友達ですか?」

「あの方、誰だと思います?」

 月彦は眼鏡の奥で眼を光らせる。そんなこと聞かれても知らない。

「誰ですか?」

「時子(ときこ)さんです」

「時子、さん?」

「京橋時子さんです」

「京橋って、じゃあ」

「そう、静を貰った京橋家の方です」

 月彦は微笑んで続けた。

「静のことで京橋家へ行った際に知り合ったのですよ。あの家で彼女だけはよく静に会いに来てくれるのです」

 なるほど、彼女がお金持ちの京橋家の人間なら、あの品の良さにも納得がいく。それでいて美人なのだから悔しい。

「どういう人なんですか?」

「素敵な方ですよ」

 月彦はそれだけしか言わなかった。窓の外からは相変わらず蝉の鳴き声が聞こえる。たぶん凄く暑いのだろうが、この部屋までその暑さも届かず、実に快適だった。京橋静は夜空の月のように止まっている。わたしを不条理な気分にさせ、現実のと非現実の境界線を曖昧にさせる。その気分は決して嫌なものではなく、非常に美しく、心地良かった。何だか自分の日常が馬鹿らしくも感じられる。月彦があんなに穏やかなのも、静の影響によるものかもしれない。

「月彦さんは、結婚はしないんですか?」

 月彦を見て尋ねる。そう悪い顔でもない。背もそれなりに高く、性格も落ち着いていて品がある。これなら嫁の一人や二人は見つかるのではないだろうか。

「結婚? さあ、しないのではないでしょうか」

「どうして?」

 もしかしたら、聞いてはいけないことかもしれないと、後になって思った。

「ぼくは基本的には無職ですから。それに静もいますからね」

 わたしは隣で寝ている彼を見た。確かに彼がいるのはまずいだろう。

「見知らぬ男がベッドで止まり続けている家の人と結婚しようと思う人はいませんよ」

 月彦はそう言って笑う。彼は当然、静をもう一度押し入れで埃まみれにはさせるつもりはないだろう。

「……京橋時子さんは?」

 あの人なら静のことも知っている。会いに来るくらいなのだから嫌悪感も抱いていないはずだろう。落ち着いている所なんか月彦とよく合いそうだ。でも月彦が、ああそうですね。じゃ、そうします。と言われるのもなんだか嫌だった。わたしは何を聞いているのだろう。

「時子さんはもう結婚されていますよ」

 なんだ、そうなのかと胸を撫でおろした。胸を撫でおろした?

 部屋の外から玄関のチャイムの音が鳴り響く。誰か客が来たのだ。

「はい」

 やや大きな声で月彦が返事をして立ち上がりわたしに、ちょっと失礼します、と言って部屋を出た。

 存在感は、ある。月彦がいなくなるとその存在感が際だって感じられた。動作も呼吸もしない人間。存在感とは一体どこから発生するのだろうか。

 殺気というものがある。あれは呼吸や動作ではない、殺人者の強烈な意識が体外にも伝わるのだ。と何かで読んだことがある。

 すると彼が何事かを考えたりすると、その存在感がわたしに伝わっているのだろうか。思考というのは脳の動作だ。しかし脳が止まっているのに思考は出来るのだろうか。わたしは彼の方を向いた。

 京橋静。

 彼は考えているのだろうか。



(第07話へつづく)