the shadow of silver
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母が亡くなった日は、わたしの誕生日だった。

丘で出会った彼は、おだやかな笑顔を見せる人だった。

いつもの夏、いつもとちがう夏。

ベッドに眠るあの人は、ずっと死なない、死人だった。


◇ 彼とわたしの静かな夏 ◇

第01話

第02話

第03話

第04話

第05話

第06話

第07話

第08話

第09話

第10話

第11話

第12話

第13話

第14話

第15話


第08話

<八月三日>

 盛夏だが熱帯夜にはならず、涼しい風の中で、沢山の生命が真夏の夜を謳歌していた。時は流れ続き、生物も、無生物でさえも産まれ、育っていく。時の流れを感じない京橋静は、数えられないほど繰り返した夏の中にいた。

 狛田凛の言葉では、静は確かに思考し、感情を持っている。それが事実なのかは分からない。人の心が読めるのなら、京橋静に聞かなくても田辺静の名前は分かる。凛が人の心を読めるのは間違いなさそうだ。

 凛は決して嘘はつかない。それがどれだけ無意味なことかは、自分が一番よく分かっているからだ。静の心が、凛の作り出した幻想でなければ、静が思考し、感情を持っている。

 しかし、事実は分からない。

 止まり続ける彼は、何を思うのだろうか。



<下弦の月>

「そんな人がこの街にいるなんて、ちっとも知らなかったわ」

 お盆に帰ってきた姉は、わたしの最近の話題を聞いてそう答えた。姉の夫と父は隣の部屋でテレビの高校野球中継を見ていた。

「良い球投げますね」

「ああ、ドラフト一位だな」

「止まっている人ねえ、一度お目にかかりたいものだわ」

「狸の置物と同じだよ」

「その割にはずいぶんと通ってるみたいじゃない」

「それは、まあ」

 なぜか行きたくなる。あの家に。

「相手のピッチャーも良いですね」

「ああ、ドラフト二位だな」

「暑いわね、この家は相変わらず」

 姉はそう言って手に持っていたチラシを団扇代わりにパタパタさせた。

「それ、何のチラシ?」

「何かしら?」

「自分で持って来たんじゃない」

「ああ、暑いなあ」

「甲子園はもっと暑いでしょうね」

「『宗教法人ミレニアム、教祖 星田徳庵(ほしだとくあん)、救世主を求めて街にきたる』だって」

「宗教に入るほど思い詰めてたの?」

「知らないわよ、駅でもらったのよ」

「ふうん」

「宗教といい、セイデンスタワーといい、この街もどんどん変わっていくわね」

「四番って太ってる人が多いですね。強打者は太ってた方が良いんですかね?」

「体重を乗せられるからな」

「静、セイデンスタワーってもう開いてるの?」

「まだじゃないの? ああ、駅のポスターに十五日からって書いてあったよ」

「ああ、惜しいなぁ」

「今のはフェアだと思うぞ」

「もう、うるさいわね」

 姉はそう言うと、自身の夫と父のいる部屋へ行った。

 開け放しの窓の外からは相変わらず蝉の鳴き声が絶え間なく続いている。青い空には入道雲が昇っている。お盆の風景は毎年似ている。月彦は実家にでも帰っているのだろうか。

「サヨナラの可能性もありますね」

「うむ」

「あら、この子可愛いわね」

 テレビを眺める家族を尻目にわたしは家を出た。



 例の丘は以前見た時と変わらず、いやそれ以上に短い芝草が生い茂っていた。強すぎる日光に答えるように草は青々としており、その中にはバッタやら何やらを沢山隠していた。上からも下からも吹き出す生命の力を受けて、訳もなくおかしな気分になる。遠くからはゴーン、ゴーンという音が聞こえる。セイデンスタワーはもう完成しているだろうから、また別の建物を建設する音なのだろう。空も丘も街も、全てが時間と共に動いていた。

 お盆といえども帰る田舎もないわたしにとっては、毎年大して盛り上がりもしない行事だけど、今年ばかりは少し違う雰囲気を感じていた。母がいないからだ。お正月の餅と同じように、お盆には必ずスイカを切ってくれた母、お爺ちゃんとお婆ちゃんをお迎えに行くわよと、わたしと姉を墓参りに誘った母。彼女はもう今年からは、迎えてもらう側に回ってしまった。高校野球に熱中していた父もその違和感に気づいていたのだろうか。

 幼い日から続いていた不変の出来事が、だんだんと変わり始めている。いや、不変と思っていたことが間違いなのだろう。何千回、何万回と繰り返された変化だ。わたしは、眼を閉じたまま止まり続けている彼を思い浮かべた。京橋静。彼だけが不変の存在なのだ。

 やや離れた所から男の人の歌声が聞こえた。その歌に聞き覚えがあったが、どうしても思い出せなかった。わたしは歌声のする方へと草を踏みつけながら歩いた。

 唄っている男は白いTシャツに薄汚れたジーンズを穿いていた。痩せてはいるががっしりとした体つきで、顔やシャツから出た腕は真っ黒に日焼けしていた。顔のそれぞれのパーツは大型だが整っており、一般的に言う『濃い顔』をしていた。最近月彦や静といった『薄い顔』の男を見続けていたせいか彼が非常に健康的に映った。歳はわたしよりも上、二十代後半だろうか、そうなると月彦と同じくらいになる。そういえば月彦の実際の年齢も知らない。

 男は眼下の灰色の街を見ながら、どこかで聴いたような英語の歌を、低い声で唄っていた。何の歌かは知らないけれど驚くほど上手だ。しばらく見ていると、わたしの気配に気づいたのか、急に唄うのを止めてこちらの方を向いた。眼が大きい。

「……もしかして、ずっと聴いてたん?」

 彼は関西弁でわたしに問いかけた。

「え、ええ、お上手ですね」

「うわっ、恥ずかし。いるんやったらいるって言わんと」

 彼は大袈裟に両手で顔を隠した。

「……すみません。」

「気ぃつけや。次から金もらうさかいな」

 彼はそう言って笑った。わたしもつられて笑った。彼の関西弁から祖父の姿を思い出す。祖父も大袈裟な人間だった。

「あの、歌手をされているんですか?」

 彼の歌があまりにも上手だったので尋ねる。

「いいや、冒険家や」

 彼は遠い眼をして答えた。

「冒険家、ですか?」

「そう、世界中の色んな場所へ行ってな、そこで遊んだり働いたりしてんの、おれ」

 要するに無職なのだろう。

「おれ、藤阪 龍之介(ふじさか りゅうのすけ)。藤棚の藤に大阪の阪、芥川龍之介の龍之介って書くの。今後ともよろしゅう。君は?」

「田辺静です。田んぼの田に底辺の辺、静と動の静です」

 つられてわたしも答えたけど、別に書き方まで教える必要もなかった。

「ええ名前や。素敵や」

 藤阪はまた大袈裟に反応する。悪い気分はしないけど。

「この街にも冒険で来たんですか?」

「いんや。おれ、昔この辺に住んでいたんよ。で、ちょっと近くに来たさかい、ついでに立ち寄ったんや」

 藤阪はそう言って街を見下ろした。

「この街も変わったでしょう」

「そうやなぁ。俺がおったころは、まだみんな『ちょんまげ』ゆっとったさかいなぁ」

「……刀を差して?」

「そ、二本差しで」

 そう言って二人で笑った。この男は初対面でもそう感じさせない軽さを持っていた。

「ここで会ったのも何かの縁や。どう? お茶でも」

 藤阪はそう言って誘う。本当に軽い男だ。

「ごめんなさい、これからお墓参りに行かなきゃならないので」

 それは事実だった。そろそろ帰らないといけない。

「お墓参り?」

「お盆ですから」

「ああ、そうなんや」

「知らなかったんですか?」

「うん、だってアルゼンチンにはそんなもんなかったから。それじゃしゃあない。ご先祖様に恨まれるしな。じゃまた今度。おれ、しばらくこの街にいるから、家はあれね」

 藤阪はそう言って街の方を指さしたが、わたしには彼の示す場所が分からなかった。

「はい、それじゃまた」

 わたしはそう言って丘を下って行った。

「絶対やで、忘れたあかんで、静ちゃん」

 藤阪は遠くから叫んでいた。

 丘を下って家へ向かう道のりで、わたしはふと、さっき藤阪が唄っていた歌を思い出した。声質が違うから気付きにくかったけど、あれは英語の歌ではない。狛田凛から聴いた自分語の歌だった。なぜ藤阪があの歌を知っていたのだろう。わたしは丘の方を振り返ったけど、冒険家の彼はもうどこにもいなくなっていた。



 長方形の墓石の側面には、最初に祖母の名前が、次に祖父の名前が、最後には母の名前が掘られている。わたしは真新しい母の名前を指でそっとなぞる。華を代え、水を掛け、線香を立て、手を合わせる。こんな石を拝んだところで、祖父母や母に伝わるのだろうか。向こうから返答も何も返って来ないのなら、こちらの言葉も届かないのではないだろうか。横を向くと、姉と、姉の夫と、父が手を合わせている。母がいなくなり、義兄がいる。時は間違いなく流れていた。

 父は、ずっと手を合わせていた。

 帰り道で、わたしはスイカを買った。母のように。姉も父も何も言わなかった。姉は、夫の話す『スイカの甘さの見分けかた』を感心しながら聞いており、父はただ静かに微笑んでいた。今年からスイカを買う役目はわたしになった。



(第09話へつづく)