the shadow of silver
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母が亡くなった日は、わたしの誕生日だった。

丘で出会った彼は、おだやかな笑顔を見せる人だった。

いつもの夏、いつもとちがう夏。

ベッドに眠るあの人は、ずっと死なない、死人だった。


◇ 彼とわたしの静かな夏 ◇

第01話

第02話

第03話

第04話

第05話

第06話

第07話

第08話

第09話

第10話

第11話

第12話

第13話

第14話

第15話


第12話

<八月二十二日>

 音のない部屋、光のない部屋、先ほどまでの騒動にも何の反応も示さないままに、京橋静は止まっていた。彼には何の関係もなかったのだ。

 彼の聞こえる音は、何もない。彼の見える風景は、何もない。完全な無の世界。そこには時の流れもない。それが彼のいる世界であり、彼そのものだった。

 彼がなぜこのような世界に陥ったのかは分からない。それまでの資料も、そうなった原因も見つからなかった。だが、彼がこの世界を選んだのなら、その理由は分かる。ぼくと同じ理由だろう。ただし、その理由が正しいのかどうかは分からない。だからここには記さない。

 黒い空には糸のように細い月が浮かんでいる。月はやがて大きくなり、満月となってこの世界に歪んだ光を放つ。

 これだけは記しておける。

 京橋静は、間違いなく幸福だ。



―暗転―

 電車の窓から見える外は黒く、たまに眼に入るオレンジの遠い光以外は何の色もなかった。細かい雨が降っており、光を反射した白く細い線が斜めに流れていた。

 定期的に流れる振動と、それに伴って聞こえる低く重い音が、少女を深い眠りの淵へと誘った。



「完成ですか?」

 黒い服を着た眼鏡の男は穏やかに微笑みながら、かたわらの背の低い職人風の男に聞いた。二人とも、毛色は違うが歳は似通っており、三十歳くらいに見えた。二人の目の前には真新しい木造平屋の建物が建っていた。

「ああ、どうだい? なかなか悪くないだろ? 片町」

 職人風の男は鼻をすすって、己が建てた物を自慢げに見上げながら、片町と呼んだ黒い服の男に大声で言った。

「ええ。やはり源(げん)さんに頼んで正解でした」

 片町は満足そうに答えた。建物には装飾はほとんど施されていない。だが土台や木の一本一本はしっかりしており、真夏の太陽を受けて鈍い光を放っていた。

「後は病人だな、院長さんよ」

「止めて下さいよ。院長さんは」

「良いじゃねぇか。本当のことなんだしよ」

「じゃあ、ぼくも源さんは棟梁と呼ばなければいけませんね」

「はは、そいつは勘弁してくれ」

「ね、そうでしょう?」

 そう言って二人は笑った。目の前の建物以外は周りや遠くに家が十軒ほど見えるしかなく、後は広い田園風景だった。

「ところで片町よ、あれはどうするんだ?」

 源は煙草に火をつけて、余った木材の束の上に腰掛けた。

「あれとは?」

 片町も隣に座り、上から降り注ぐ真夏の太陽を避けて麦わら帽子を被った。源はそのまま短く刈り込んだ頭をさらけ出していた。

「あれだよ、静だよ」

「ああ……どうしましょうか?」

「おれに聞くなよ」

「まだ、向こうの家に置いてありますよ」

「あっちの家も引き払うんだろ? じゃ、こっちへ連れて来るのか?」

「そうなるでしょうね」

「粗末に扱うんじゃねぇぞ」

「そうですね。物置にでも入れておきますか」

「けっ、冗談は程々にしとけ」

「はい」

 片町は微笑む。源は鼻をすすった。

「研究はもうやらねぇのか?」

「忙しくなりますからね。難しいと思います」

「忙しくなるのかよ?」

 源は辺りを見回しながら言う。麦わら帽子を被って畑仕事をしている人間が何人か、遠くに見えた。

「そうなって欲しいです。」

「医者が商売繁盛祈願か。不遜だな。しかし人がいなくちゃ話になんねぇだろ」

「一人でも人間がいれば医者は必要です。何か起こって一番大変なのは、ここみたいに医者のいない村ですよ」

「良いこと言うじゃねぇか。医者の鑑だ」

 源は煙草を捨てて膝を打った。

「それに元々医者がいない地方なら、患者さんを独占できますからね」

「へっ、思ったより商売上手じゃねぇか」

 二人は笑った。

 夕方。二人は木造病院からほど近い、見晴らしの良さそうな丘に登った。赤い夕日が明日の晴天を示していた。

「やっぱり何もねぇな」

 眼下の風景を見ながら源は言う。

「これから発展していくと思いますよ」

 片町も水田を見下ろしながら答えた。

「どうだか。おれは病院が潰れて、泣きながらおれんちへ来る方に賭けるぜ」

「縁起でもないですね」

「お前は家で静と暮らしている方が似合ってる」

「そういう訳にもいきませんよ」

 夕日は早々に西の山に沈んでゆき、辺りは徐々に夜の暗さを広げていた。

「結局、分かんなかったんだろ? 静のことは」

「はい。結論から言うと、何も分かりませんでした。目覚めさせることもできませんでした」

「残念だったな」

「そうですね。でも静はずっとあのままですから、またいつか、誰かが調べてくれるでしょう」

「……何なんだろうなぁ、あれは」

 源は煙草に火をつけた。薄暗い闇の中で、赤い点が灯り、青い煙が流れた。

「何か、聞こえませんか?」

 片町は辺りを見回しながら尋ねる。

「何が?」

「何か、歌のようなものが」

 片町がそう言っている間にも、歌声は大きくなってきた。

「聞こえるな。誰か男が登ってきてるんだ」

「それにしても……」

「ひどい音痴だな。おれの方がよっぽどましだ」

 二人が見ると確かに丘を登ってきている男が見えた。農作業風の服装を着た男は、大きな鍬(くわ)を下げ、気持ち良さそうに唄っている。男も片町と源に気づいたらしく、歌を止めると、勢いよく駆け登って来た。

「見かけん顔やな」

 二人とそう変わらない年齢と思われる男は、関西弁で喋った。

「最近ここへ来た者です」

 片町は銀縁の眼鏡を整えて答えた。

「そうか。ここはおれの見つけた場所や。勝手に入ってもろたら困るな」

 男は睨む。

「何だと!」

 源は負けずに睨み返す。片町は手を伸ばして源を抑えた。

「そうですか。知りませんでした」

「うん、知らんかったらしゃあない。そっちの兄さんの煙草一本で堪忍したる」

 男は途端に愛嬌のある笑い顔になり、そう言った。

「けっ、煙草が欲しいんならそう言えよ」

 源はポケットから煙草の箱を取り出すと、男に差し出した。男は、おおきに、と拝んでから一本引き抜いた。

「この辺の方ですか?」

 片町が煙草をうまそうに吸っている男に尋ねた。

「この辺も何も、おれがこの村を作ったようなもんやで」

「それはすごい」

「うん、せやから言葉遣いに気ぃつけや」

「全くべらべらと、静の爪の垢でも煎じて飲ませたいぜ」

 源は横を向いてそう言った。

「……静って何や?」

「僕たちの知り合いですよ。」

「ふぅん。そいつはそんなに無口なんか?」

「無口と言いますか……」

「喋らねぇんだよ。」

「何やそれ?」

 黒い空には上弦の月が浮かんでおり、三人の男はその下の芝生に座り込んでいた。生温い夜風が時折流れ、芝に埋もれた虫たちがそれに合わせて高く澄んだ音を奏でている。関西弁の男は片町と源の話を興味深そうに聞き入っていた。

「へえ、そんな奴がいんねや」

「面白いでしょう。」

「止まり続けとる人間か。そんな奴初めて聞いたで」

「そうそう居るもんじゃねぇからな」

 源は煙草の箱を出し、一本抜いた。すかさず男も煙草を抜き取った。源はもう何も言わなかった。

「いやいや、こんな夜には怪談話にもなるわ」

 男はそう言って笑った。他の二人も笑った。

「良ければ、一度御覧になってみますか?」

「堪忍してくれ。そんなん怖いわ」

「別に怖かねぇぜ。女みてぇな顔してるし」

「ふぅん。静ってのも女みたいな名前やな。あんたが名前付けたんか?」

「いえ、わたしが知り合う以前からそう呼ばれていました」

「……静、なかなかええ名前やな」

 男はその名前がことのほか気に入ったらしく、空に向かって何度もつぶやいていた。

「お、片町、もうこんな時間だ」

 源はその黒く太い腕に巻き付いた丈夫そうな時計を見て言った。片町もつられて自分の銀色の小さな腕時計を見た。

「ああ、本当ですね。長居してしまいましたね」

「良し! 決めたで。おれは」

 男は立ち上がって叫ぶ。その声に片町も源も振り返って男を見た。

「……何をですか?」

「静って名前、俺の娘に付ける」

「娘さんがおられるのですか?」

「いや、おらへん。でも嫁はんがいるから。作る」

 男の言葉に源は大笑いした。

「女房に断られたら? 何より男が生まれたらどうすんだよ」

「じゃあ、孫娘に付ける」

 三人は笑った。

「壮大ですね。じゃ、ぼくたちはこれで失礼します」

 片町はそう言って立ち上がる。源も立ち上がって伸びをした。

「そうか、ほなさいなら。ところで眼鏡の兄ちゃんはお医者さんか?」

「そうです。よく気付かれましたね」

「話が小難しかったさかいな」

「この村に病院を開くことになった、片町秀一と申します。こちらは、この村には住んでいませんが友達の大工で、長尾源蔵さんです」

 片町はそう言って頭を下げた。源はただ、よろしくな、と言った。

「さよか。じゃ、またお世話になるかも知れへんな。気ぃ付けて帰りや、先生」

 男に見送られて、片町と源は丘を下って行った。しかし片町はふと足を止めて、男の方を向いた。

「そう言えば、あなたのお名前を聞いていませんでしたね」

「俺か? おれは田辺って言うんや。以後よろしゅうにな」

 田辺と名乗った男は笑って手を振った。



 少女はゆっくりと眼を開けた。しばらく眠っていたらしく、まだ頭が鈍くなっているようだ。外の景色は相変わらず暗く、細かな雨が降り続いており、小さな揺れがずっと続いていた。車内を見回したが、やはり人は少なく、眠っている者、ぼんやりと黒い外を見ている者と様々だった。

「……どうした? 凛。」

 少女の隣に座っていた父親らしき男がそう言った。男も今まで眠っていたらしい。凛と呼ばれた少女は、男の言葉に返事をせずに窓の方を向いた。そして、今見た夢を思い出し、少し笑った。

 さようなら、静。

 凛はそうつぶやくと、再び眼を閉じた。

 さようなら、月彦。

 列車はどこまでも、黒い夜を走っていた。上弦の月は雲に隠れて見えなかった。

―暗転―



(第13話へつづく)