the shadow of silver
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母が亡くなった日は、わたしの誕生日だった。

丘で出会った彼は、おだやかな笑顔を見せる人だった。

いつもの夏、いつもとちがう夏。

ベッドに眠るあの人は、ずっと死なない、死人だった。


◇ 彼とわたしの静かな夏 ◇

第01話

第02話

第03話

第04話

第05話

第06話

第07話

第08話

第09話

第10話

第11話

第12話

第13話

第14話

第15話


第13話

<八月二十八日>

 綺麗に半分に欠けた月が、夕刻の太陽と共に空に現れ、不条理だが懐かしい風景をぼくに見せた。

 晩夏。もうこの日記も終わりに近づいている。読まれることのない日記を、読まれるように書いてきた。読んでもらいたいのかもしれない。誰かに。しかしこれも、数年で紙は傷み、やがて消えていく。

 そばには本や資料、その他の紙の束が乱雑に積み重ねられている。気がつけばこれほどの量になっていた。さらにその奥には、その紙の束を作らせた人物。京橋静がいる。

 ぼくは静と日記と、そして紙の束を見つめた。

 外からは虫の声が聞こえた。

 静と日記は残す。しかし資料は全て捨てる。これはぼく以外の人間には必要のないものだから。

 ぼくは結局、彼を目覚めさせることはできなかった。

 静の額に真っ白な蝶が停まった。彼はそれを感じることも、触れることも、愛でることもない。

 ぼくは、静を目覚めさせられなかった。

 蝶が月に向かって飛んで行った。



<九日月>

 夏休みの終わりが、夏の終わり。数年前までは八月三十一日のきょうが夏の終わりだったけど、大学に入ってからは九月の半ばまで延長されるようになった。季節は自然が決めるのではなく、人それぞれが決めるものかもしれない。わたしが秋と認めるまで、夏は終わらなかった。

 今年の夏は例年にない体験を一杯した。絵日記の宿題があったなら、どれほどバラエティに富んだノートが作れたことだろうか。色んな人間、それもみんな一風変わった人間に出会い、ほとんどみんな去っていった。藤阪ももうすぐ去ってしまうらしいから、もう残っているのは、陽介を別とすれば月彦と京橋静だけしかいなかった。この二人はたぶんまだ、しばらくは残り続けるだろう。いや、二人共いつまでもあの世界に残っているような気がする。そしてその中にわたしが加わるのも良いかもしれないと思った。

 ともかく、わたしは例の丘に立っていた。夕暮れの丘の空気はわたしの知らないうちに秋の気配を漂わせていた。まだ夏は終わらないと思っていたけど、そうでもないと思えてきた。季節を変えるのは人間ではなく、やはり自然だった。家を出て感じた秋の夕暮れはどこか物寂しい。見える街の景色は夕方になっても忙しそうに働いており、情緒も何もあったものではない。それもまた、どこか寂しい気持ちにさせた。

 芝生の上に座り灰色の街を眺めていると、わたしは、母の亡くなった日を思い出した。あの日の夕方もわたしはここにいた。七月十七日、母の命日にしてわたしの誕生日であるあの日、いよいよ暑くなってきたあの日と、そろそろ暑さが弱まってきた今日は、とてもよく似ていた。

 あの日わたしは初めて月彦と出会った。上品な物腰、銀縁の眼鏡の奥の細い眼、静かな口調、穏やかな微笑み。あんな人間は初めて見た。波の緩やかな海、月彦にはそんな優しさがある気がした。青く静かな、その中には多くの生命が泳いでいそうな。夏の晴れた海。

 違う。その表現には何か違う所があるのを感じた。何だろう? 月彦を思い浮かべた。静かな海ではある。しかしそれだけではない。その中に何か影の様なものが、影を思わせる何かがある。例えば満月のような。

 そうだ。夜の海だ。空には満月が浮かんでいる、漆黒の夜の海だ。どこか不条理な、納得できない、底が知れない真っ暗な海。それが月彦なのだ。しかし、なぜそう思えるのか分からなかった。

 やや離れた場所で煙が立ち昇っているのが見えた。何が燃えているのだろう、細い煙は揺れながら真上に昇り、夕焼けの空に混じって消えていた。山火事というか丘火事になるほど空気は乾燥していない。すると誰かが何かを燃やしているのだろう。ここからではよく見えない。わたしは立ち上がると、煙を頼りに丘の斜面を歩き出した。

 煙を辿っていると、一人の人物がわたしからは後ろ向きに座って何かを燃やしているのが見えた。そばには律儀に、おそらく水が入っていると思われるバケツが置かれている。黒い服を着た人物。わたしは、それが後ろ向きであっても月彦であるのが分かった。

 何を燃やしているのだろう。やや横に動くと月彦の顔がよく見えた。彼は何やら深刻な、寂しげな表情で燃えている物をじっと見つめている。いつもの穏やかな微笑みとは違う。そう、月彦のこの表情が、わたしに彼の影を思わせるのだ。

「何してるんですか?」

 月彦の背中に向かって声をかける。彼はわたしに気づいていなかったらしく、少し驚いた表情で振り向くと、いつもの穏やかな顔になり、

「やあ田辺さん。こんにちは」

 と答えた。

「何を燃やしているんですか?」

 もう一度尋ねて、燃えている物を見る。何やら大量のノートらしい。まだ焼けていないノートの一つの表紙がめくれ上がっていた。そこには細かい文字で整然と、何やら数学の公式のようなものが書かれていた。しかしやがてそれにも黒い斑点が現れ、整理された文字列を塗りつぶし、赤い炎となって引き裂かれていった。

「もう必要のなくなった物です。近頃はこういう物はゴミ捨て場に置いても持って行ってくれないのですよ」

 月彦は木の枝で灰をよけながら笑って答えた。その姿を見てわたしは、彼が、清掃業者が持って行ってくれないからではなく、自分で燃やしておくべきだからそうしているように思えた。月彦は何のためらいもなく、次々とノートに火を移していく。薄黒い煙がさらに立ち昇った。

「何かの研究ですか?」

「静の目覚まし方を調べていた時に使った資料やノートです」

「え? もう止めちゃったんですか?」

 元からそれほど熱心に研究していたようには見えなかったけど、燃えている紙の束を見ると、それなりに長い間研究していたらしい。それにしてもなぜ止めたのだろう?

「自分なりに研究は完成したからです」

 月彦は最後のノートを火にくべた。

「じゃあ、分かったんですか?」

「分かりました」

 月彦ははっきりとそう言った。ついに静を目覚めさせる方法が分かったのだ。わたしはそれがまるで自分が発見したように嬉しくなった。思わず座っている月彦を後ろから抱きしめたくなったけど、やはり思い留まった。そこまで馴れ馴れしくはできない。

「おめでとうございます。月彦さん。やっと京橋さんを起こせるんですね」

 わたしがそう言うと月彦は少し笑った。

「いいえ。ぼくは、静が絶対に目覚めさせられないことが分かったのですよ」

 沸き上がる炎をじっと見つめて、月彦はそう言った。

「え? それじゃ解決してないじゃないですか?」

 わたしは動きを止めた。それではただ単に諦めただけではないのか?

「いえ、目覚めさせられないことが完全分かったということは、その時点で研究は終了ですよ」

「それは、まあ」

 わたしには彼がどういう研究をしたのか、説明されてもおそらく理解できないだろう。でも月彦がそう言うのならそうなのかもしれない。わたしは何だか肩すかしを喰らったような、拍子抜けの気分だった。つまらない。とうとうわたしたちは静に会うことはできなかった。まあ、初めから期待していなかったといえばそうだけど。

「じゃ、研究はもうやらないんですか?」

「やりようがありませんからね」

「これから、どうするんですか?」

 別に京橋静の研究が彼のライフ・ワークだとは思わないけど、わたしには彼がそれ以外に何をやっているのか知らなかった。何もやっていないように思えたのだ。色んな友達が彼の前を去っていった。まだ他に友達はいるのだろうか? 月彦は何も答えずに、ただ微笑んでいた。煙はわたしたちの真上に昇り、その下の紙の束は、もうほとんど灰になってしまった。あたりはもう暗くなりはじめ、空には満月よりはやや欠けた月が浮かんでいた。風が吹き、大きな灰の一つが、月に向かって飛んだ。

「月が綺麗ですね」

 わたしは月彦の隣に座り、空を見上げてそう話した。月彦もゆっくりとした動作で上を向いた。

「……はい、もうすぐです」

 月彦はつぶやくように答える。

「もうすぐって、何がですか?」

「……満月になるのがですよ」

「満月になったら、何かあるんですか?」

「月にはさまざまな作用があります、満月や新月の時には脈拍が若干速くなったり、怪我をした時には出血多かったり、好戦的になったり、交通事故が増えたりもします。満月や新月だけじゃなく月全体を考えても、潮の満ち引きにも関係ありますし、女性の生理もそうです。そのため出産にも関わってくる。人間だけではありません、全ての生命は、太陽はもちろん月の影響を受けて生きているのですよ」

 月にそれほどの影響力があるとは思っていなかった。生理のことは何かの本で読んだ覚えがあるし、自分でも何となく感じていたけど、好戦的になったり交通事故まで増えるとは知らなかった。満月の晩に普通の人間が凶暴な狼男になる物語も、誇張されてはいるけど案外事実なのかもしれない。

「でも、それだけじゃないとぼくは思っています」

「どういうことですか?」

「今の話は全て、目に見える事象です。精神的影響もちゃんと測定できます。でも、もっと不思議な力もあると思います」

 それはわたしも何となく分かる気がした。魔力というか魅力というか、そういうものがあるのではないだろうか。そしてそれと同じ力が、京橋静にもあると思った。

「言葉では説明できない何かを、月は持っています」

 月彦は空を見上げながらそう言った。わたしには彼が何を考えているのかは分からなかった。日の落ちた丘はもう真っ暗になっており、月の光が月彦の顔を照らしていた。

「それで、次の満月になったら何かあるんですか?」

 わたしは話を戻した。

「大したことではありません」

 彼は静につぶやく。何が何だか分からなかった。しばらくの間、わたしたちは無言で月を眺めていた。燃え尽きた紙の束から、少し灰が舞った。

 よく分からないけど、たぶんわたしは月彦が好きなのだろう。それが恋愛感情なのかどうかは分からない。以前、京橋静に抱いた感情に似ている。月彦にはどこか、分からない所があるのだ。誰にだって他人には知り得ない所はある。しかし彼の場合は、何か、他に出会う人間とは違う何かを持っている。それが、前に狛田凛が言っていた『暗くて深い闇』なのだろうか? わたしは次第に、京橋静よりも月彦が、わたしとは違う人間のように思えてきた。それが理解できない限り、彼に対して恋愛感情も抱けないだろうと思った。

「さて、そろそろ帰りましょうか」

 月彦はそう言って立ち上がると、灰の山にバケツの水をかける。わたしも複雑な気持ちのまま立ち上がった。

「京橋さん、目覚めさせられなくて残念でしたね」

「仕方ないですよ。物事には出口のない場合もあります」

 月彦は哲学めいたことを言う。その表情は諦めがついたのか、大して落ち込んでいないように見えた。

「そうですね。入口も出口もないこともありますね」

 わたしはそれを必死に理解して答える。すると月彦は笑った。

「いえ、入口はありますよ。でなければその物事は存在しませんから」

 ああ、確かにそうだ。よく分からなかったからわたしも笑った。

「じゃ、行きましょう」

 月彦は丘を降り始めた。わたしも隣をついて歩いた。

「……月彦さん」

「はい、何ですか?」

「……あの、わたしは月彦さんが好きです。だからどうしようって訳じゃないんですけど。あの、月彦さんには、何かよく分からない、わたしが馬鹿だからなんですけど、そういうのがあると思います。それが分かれば、もっと月彦さんの話し相手になれると思います」

 なぜそんなことを言ったのかは分からない。それに対してわたしがどういう反応を求めているのかも分からない。しかしわたしは言った。そう言わなければならないと思った。

「そうですか。ありがとうございます。ぼくも田辺さんは好きですよ」

 月彦は眼鏡の奥の細い眼を、さらに細めてそう答えた。それも恋とか愛とかではなく、友達としてということは彼の口調から分かった。でもわたしはそれで満足だった。

 月の光が暖かかった。わたしは月彦に、いつもより少し寄り添って歩いた。



(第14話へつづく)