the shadow of silver
SOS日記本メルマガ掲示板プロフィール

出版書籍一覧 / WEB小説 「星祭り」 / WEB小説 「彼とわたしの静かな夏」 / WEB小説 「ミラージュタワーの『子供』たち」


母が亡くなった日は、わたしの誕生日だった。

丘で出会った彼は、おだやかな笑顔を見せる人だった。

いつもの夏、いつもとちがう夏。

ベッドに眠るあの人は、ずっと死なない、死人だった。


◇ 彼とわたしの静かな夏 ◇

第01話

第02話

第03話

第04話

第05話

第06話

第07話

第08話

第09話

第10話

第11話

第12話

第13話

第14話

第15話


第14話

<望月>

 九月五日、わたしは例によって昼ごろに起きた。ここまで続くと、朝早くに起きることなどもう、不可能なように思われた。秋が近づいてきたとはいえ、真昼の太陽はまだまだ暑い。わたしは気怠そうに目覚めると、月彦のものとは数倍味の劣るインスタントコーヒーを作って椅子に座った。

 まだ頭が目覚めていない。かたわらに折り畳まれた新聞を広げてみる。いつも通り政治家の不祥事と世界の悲惨な事故の報道が眼に入った。こんなことがいつも通りと思える世界と自分が嫌だと思った。コーヒーは美味しくなかったけど、寝ぼけたわたしの味覚ではそれでも十分だった。

 新聞の隅に書かれた天気予報では今日は全国的に一日中晴れると書かれていた。さらにその隣には丸い円が描かれていた。何のことだろうとよく見ると、どうやら今夜の月の見え方を示しているらしい。そうだ、今日は満月なのだ。わたしは月彦のことを思い浮かべた。彼は確か、満月の日に何かあるとか言っていた。一体何があるのだろう。会いに行こうかとも考えたけど、何かあるのなら家にいないかも知れないので止めておくことにした。

 歯を磨き顔を洗い、やっと目が覚めたわたしは、今日は何をしようかと考えた。金はないけど暇はある。それならアルバイトでもすれば良いけれど、それもあまり好きじゃない。何というか、自分はとても動物的だなと思った。それも野生の動物ではない、飼い猫のような、一日中眠っていて、ご主人様が触れれば甘えれば良い、それでご飯がもらえる。自分はそんな所だと思った。専業主婦というのも良いかも知れないと考えた。外へ出て働くのはともかく、家事なら割と好きだ。よし、学校を出れば結婚でもしよう。そのためには相手を見つけておかなければ。月彦か? 今の所わたしが唯一惹かれるのは彼だ。いや、駄目だ。彼も無職だ。そんなことを真剣に考えている自分が少しおかしかった。

 家の外から声が聞こえた。誰かが話をしているのかと思ったけど、どうやら歌っているらしい。昼間から一杯入ったようにご陽気である。しかしよく聞いているとわたしはその歌には覚えがあるのに気づいた。どこの言葉でもない、知る人ぞ知る名曲。

「何をやってるんですか?」

 わたしは窓を開けた。

「おや、静ちゃん」

 大きなリュックを下げた藤阪は、歌を止めてわたしを見た。

「どこか行くんですか?」

「帰るんや、アルゼンチンに」

 藤阪は人懐っこい顔で笑った。

「え? そうなんですか」

「そう、どう? 一緒に来ない?」

「アルゼンチンへですか?」

「いや、駅まで。お見送りに」



 わたしは簡単に着替えを済ませると外へ出た。見送りに月彦の姿が見えないのでそのことを尋ねると、

「あいつは自分の家が火事にでもならん限り、外へは出えへん」

 と藤阪は答えた。晴れた空からは暑い日光が照りつけ、それを足下のアスファルトが跳ね返し、さらに暑かった。藤阪は珍しく何も喋らず、隣で何か考えことでもしているような顔をしていた。それでもわたしが黙っているのに気づくと、何やらつまらない冗談を言った。

「月彦さんは、家にいるんですか?」

「うん。いつも通りやった」

「あの人って、昔からあんな感じなんですか?」

「そうやなぁ」

 藤阪は右手の親指と人差し指で顎を挟み、上を向いた。

「わたし、何かあの人には過去に秘密があるような気がしたんですよ。最近」

 人間、何年も生きていると秘密の一つや二つはあるだろう。しかし映画や本のように、実は影の組織の人間だとか、必殺仕事人だとかということはあり得ない。そう思い笑って藤阪を見た。すると藤阪は、指で顎を挟んだまま、今までに見せたことのないような驚きの表情でわたしを見た。

「どうかしたんですか?」

「いや、女の勘って奴は侮れへんなと思って」

「……どういうことですか?」

 そう尋ねると、藤阪はふむと言った。

「……おれが、何でこの街に来たか知ってる?」

「京橋さんに会いに来たとか言ってましたよね」

「うん、それもある。でも本当は、月彦を見に来たんや」

 藤阪はいつになく低く、小さな声で話した。それを聞いたわたしは、まあ実際はそうなんだろう、友達なのだから、くらいにしか考えなかった。

「……名医片町、上は秀才、下は天才」

 藤阪は歩きながらそうつぶやいた。

「何ですか? それ」

「おれが子供のころ、この街に住んでいた時によく聞いた言葉や。名医片町ってのは今の片町総合病院の院長、片町光一さんのこと。上ってのは上の息子、つまり陽介兄ちゃんやな。で、下ってのは……」

「月彦さん?」

「そうや」

「天才って、どういうことですか?」

「陽介兄ちゃんは昔から勉強が良くできたんや、一生懸命勉強してはったからな」

 確かに、陽介はそんな感じがする。まだ若いのにずいぶんしっかりしている。弟と比べているかも知れないけど。

「でも月彦は陽介兄ちゃんほど熱心やなかった。だから成績も真ん中くらいや。でもな、あいつは天才なんや」

 どういうことだろう。わたしが子供のころは、勉強の良くできる子を天才と思って、うらやましいと思っていた。

「静ちゃん、秀才と天才の違いは分かるか?」

「違い、ですか?」

 よく分からなかった。どちらも似たような意味ではないのだろうか。

「秀才ってのは、勉強がよくでき人のことや、それも才能やと思うけど、ぼくらでもなろうと思えばなれんこともない、というかなれる気もする。でも天才は、生まれつき人には真似のできんものを持ってる人のことや」

「はあ」

 何となく、分かる。

「月彦は天才や。おれらとは全く別の感性で生きとるんや」

 わたしは今までに聞いたことのある天才を思い浮かべた。ピカソやシューベルト、アインシュタインもそうだ。確かに自分とはかけ離れた頭を持っているように思えた。藤阪は月彦もそれに当てはまると言っているのだ。とてもそうには見えない。頭がいいのは確かだろう。でも天才と言われるような人には見えない。いたって普通だと思った。

「昔、あいつは医者やったんや」

「確か医師免許は持っていると聞いたことがあります」

 そうか、その時点でも大したものだ。医者になるのは難しいのは何となく分かる。

「そう、秀才の陽介さんが一生懸命努力して入った難関大学の医学部へ、あいつはたった三日間の勉強だけで簡単に入ったんや。その三日の内に何をしたかと言うたら、手に入れられるだけの教科書や専門書、滅茶苦茶分厚い本やで、それも何百冊を、一言一句暗記したんや。丸暗記って奴や。それも半端な丸暗記やない。何とかって単語がどの本の何ページ目の何行目に、どう書かれているかまでをさらって答えられるんや。もちろん覚えた単語や公式はいくらでも応用できた」

 なるほど、月彦にそんな能力があるとは驚いた。暗記力の優れている人間は、わたしも何人かは知っている。しかし藤阪の話が本当なら月彦はわたしの想像をはるかに超えていた。天才と言われていたのもうなずける。それにしても、普段の生活からは、少々難しい静の研究もしているようだけど、そこまでの天才ぶりは微塵も感じられなかった。もうそんな能力はなくなってしまったのだろうか。

「凄いですね。うらやましい能力です」

 やはり月彦はただ者ではないのだ。でも藤阪は渋い顔のままだった。

「そう思うか?」

「ええ」

「そんなら、何であいつが今、医者やないと思う?」

「そういえば、何かあったんですか?」

「いや、耐えられへんかったんや」

「医者の仕事にですか?」

「いや、死んだ人間が生き返させられへんことにや」

「そんなの、無理じゃないですか」

 それができるのなら医者はいらない。

「そう、無理や。でもあいつは自分が人とは違う、天才やというのが分かっとる。だから絶対に人を死なせたらあかんという責任があったんや」

「そんな理由で、医者を辞めたんですか」

「そう、おれらにとってはそんなアホな理由や。誰もそんなこと医者に頼まんし、頼まれても医者はできんって言うに決まっとる。誰もが当然のように諦める。でもその諦めが、あいつにはできへんかったんや。あいつはもの凄く優しいんや。しかも普通の人には理解できへんくらい。遠くの国で地震が起こって何十人が死んだら、自分が助けられなかったからや悲しむんや。あいつは無茶苦茶や。でもあいつは真剣なんや」

 月彦は以前、医者は向いてなかったから辞めたと言っていた。それはつまり、そういうことだったのだ。天才の責任、異常な優しさ。彼には分からないこと、できないことなどなかったのだろう。だから人間の死に耐えられなかったのだ。

「……優しいんですね」

 そう、つまりそういうことだ。

「……うん。で、あいつはその優しさと、天才との間に挟まれて壊れたんや」

「壊れたって?」

「ここが」

 そう言って藤阪は自分の頭をコツコツと叩いた。

「あいつはそういう理由で医者を辞めてから五年間、全く家から出なくなったんや。それだけやない。一言も喋らんかった。いつもボーっとしとった。おれや家族が話しかけても反応せんかった」

「……なぜ?」

 月彦にそんな時があったとは驚いた。

「わからん。でも多分、自分の頭を使わんようにしたんやと思う。少しでも頭を動かすとまた自分が苦しむから。おれらには到底理解できへん苦しみや」

 わたしには人間の頭がどのような構造なのかは分からない。月彦は頭が良すぎるのだ。暗記や計算といった、わたしが最も苦手とする部分が優れ過ぎているのだ。しかし彼は同じ頭でも、わたしたちが心と呼んでいる部分、感情は、わたしたちと同じか、それ以上に脆いのだろう。だから彼はそのバランスが保てずに苦しんだのだ。凡人のわたしに理解できるのはそのあたりまでだ。狛田凛が言った、月彦の深い闇はとはこのことだ。凛は月彦をかわいそうと言っていた。

「でも、月彦はある時を境にその状態から戻ることができたんや」

 藤阪は煙草に火を付けた。

「それって……」

「そう、京橋静や。あいつは静に出会った。静は天才月彦が唯一理解できへん存在やった。あいつが自分でそう言ったんや。そして、それからはあの家でずっと静の研究をしとる」

 遠くの方にセイデンスタワーが青い空に向かって生えていた。さらにその奥から、ゴーン、ゴーンという力強い音が響いていた。またどこかでビルが建つのだろう。

「そうだったんですか。だからあんな、隠居老人みたいな生活をしているんですね」

 月彦はまだ若いにもかかわらず世捨て人のような生活をしている。それが彼にとっては一番良いのだろう。

「いや、それは違うで」

 しかし藤阪は煙を吐いてわたしを見た。

「あいつは一回壊れて、元に戻った。でもあいつの能力はなくなってへん」

「そうなんですか?」

「あいつは、昼間ボーっとコーヒーでも飲んで、人と話して、静と遊んでるだけやないんや」

 わたしはふと、この間月彦が燃やしていた静に関する紙の束を燃やしていたのを思い出した。それは、半端な量ではなかった。彼はいつ、研究をしていたのだろう?

「おれはここ二十日間ほど月彦と一緒に暮らしてた。でも、おれはあいつが眠ってんのを見たことがないんや」

「そんな……」

「昔からあんまり眠らん奴やった。せやけどこんなに眠らへんのは異常や。あいつは夜中ずっと机に向かっとるんや」

 そういえば確かに、月彦が眠そうな顔をしているのを見たことがない。品の良い彼だから客の前ではいつも整然としているのだと思っていた。以前の、京橋静復活の儀式の時も、彼だけはずっと眠ることも、眠そうな素振りすらも見せなかった。月彦がわたしに見せていた姿は、研究の合間の休息の姿だったのかもしれない。ますます彼が分からなくなってきた。

「……でも、京橋さんは目覚めさせられなかったらしいですね」

「……そうらしいな」

 やはり藤阪も聞いていたらしい。

「何にせよあいつには、おれらの理解できへん所がある。長い付き合いやけど、得体のしれん奴や」

「でも……」

「でも、おれはあいつが好きや。だからこうしてたまには様子を見に来る」

 藤阪はそう言って笑って煙草を捨てる。捨てた後にまた拾い直してポケットにしまった。

「……月彦さん。これからどうするんでしょうか」

「うーん、わからん。しばらくはあのまま暮らしているんとちゃうかな」

「また壊れたりしませんか?」

 わたしは藤阪の表現をそのまま使った。

「……分からへんけど、たぶん大丈夫やと思う」

 藤阪は曖昧に答えた。

「どうして、大丈夫だと思うんですか?」

「最近あいつは落ち着いとる。それどころか活き活きしとるようにも見える。たぶん、研究が終わってすっきりしたんやろ」

「それならいいんですけ」

「あと、静ちゃんもや」

「わたし?」

「うん、この間月彦が言うとった。静ちゃんに好きって言われたって」

 藤阪はそう言うとニコリと笑う。わたしはひどく赤面してしまった。まさか、まさか伝わっているとは思わなかった。

「あ、あれは、そういう意味じゃなくて」

「ええがな。否定せんでも。それで月彦は落ち着いてくれるんやから」

 確かに、それで落ち着いてくれるなら良いことだ。わたしはとりあえず、研究が終わったのならゆっくり眠って欲しいと思った。



 駅に着くと藤阪は、ここから一番近い空港のある駅までの切符を買った。わたしはそれを見ながら、また一人減るのを感じた。そう、月彦が言ったように、それも時の流れだ。わたしたちは、天才の月彦でさえも、時の流れの中にいる。これからも。

「ほな。また会いましょ」

 藤阪は気さくに笑ってそう言う。わたしも一緒に微笑んだ。

「はい、お元気で」

「月彦を頼むで」

 藤阪は敬礼をした。ずいぶんと重要なことを頼まれた。

「そうだ。月彦さんって、きょう何かあるんですか?」

「え? いや、聞いてへんけど」

「何か、次の満月の日になにかするようなことを言ってましたけど」

「何やろ? 狼男にでもなるんかいな? それやったら静ちゃん、今日はあいつの家に行ったらあかんで」

「はあ。それにしても何でしょうね?」

「さあ? まあ大したことやないやろ。」

「そうですね」

 藤阪も知らないのなら、その程度のことなのだろう。藤阪は改めて軽く挨拶をすると、改札口を入って行った。その後も時々振り返ってはわたしに手を振った。だからわたしもなかなか帰られなかった。

 何か、不安なものがあった。それが何かは分からなかった。空気は暑いのに、風はもう涼しくなり始めていた。



(第15話へつづく)