the shadow of silver
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母が亡くなった日は、わたしの誕生日だった。

丘で出会った彼は、おだやかな笑顔を見せる人だった。

いつもの夏、いつもとちがう夏。

ベッドに眠るあの人は、ずっと死なない、死人だった。


◇ 彼とわたしの静かな夏 ◇

第01話

第02話

第03話

第04話

第05話

第06話

第07話

第08話

第09話

第10話

第11話

第12話

第13話

第14話

第15話


第15話

<九月五日>

 闇の中に満月が浮かんでいる。

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 その夜、わたしは窓から見える満月を椅子に座ってぼんやりと眺めていた。

 丸く大きな月はいつもより輝いているように見えて、何だか不安な気持ちになった。父はまだ会社から帰宅していない。家の中も、家の外もしんとしている。涼しい夜風がわたしを通り抜けた。

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 黄色く神秘的な光が、ぼくと静を照らしていた。

ぼくにとっては三十年近く、静にとっては百年以上も浴びてきた月光の波。その波はぼくの精神を揺らし、不安にさせる。

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 わたしは京橋静を思い浮かべた。白く美しい顔、黒く長い髪、その姿は月と同じように、魔力を秘めている。次に月彦を思い浮かべた。細い眼、小さな口、低く、穏やかな声。それもまた、月の魔力を持っているのではないだろうか。そんな風に思えた。彼は今、何をしているのだろうか?

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 ぼくは、静を目覚めさせる方法を見つけることができなかった。いや、目覚めさせる方法など最初からなかったのだ。それに気づくまでずいぶんと時間がかかった。その間、多くの人が死に、多くの人が産まれた。自然の摂理。だが全て不幸だ。ぼくが助けてあげなければならなかった。ぼくは、産まれてから一度も、誰一人として幸福にはしてあげられなかった。その思いが間違いなのは分かっている。だが、それならなぜ、天はぼくにこの頭脳を与えたのだ? なぜこの頭の回転を止めてはくれないのか?

 ぼくが他の人とは頭の作りが違うことは、幼いころから気づいていた。物心が付いた時から、膨大な情報が、常に頭に入り込み、そしてそれは決して頭の外へ出ることはなかった。そう、ぼくには『忘れる』という感覚が分からない。あらゆる知識、計算、そして怒りや悲しみでさえも、遠い過去の出来事が、まるで先ほど起こったことのように思い出せる。その苦しみはおそらく誰にも分からないだろう。ぼくは幼いころ、その能力は誰もが持っていると思っていた。

 それが異常だということに気づかせてくれたのは、兄だった。兄はぼくとは違う。普通の人間だ。忘れることもできるらしい。その喜びは分からないようだが。彼はいつも勉強していた。それはたぶん、ぼくが隣にいたからだろう。彼はずっと劣等感を抱いていたのだ。

 ぼくは医学や生物学に興味を持った。それは、自分が他人とはどこが違うのか知りたかったから。そして、なぜこんなぼくが産まれてきたのかを知りたかった。

 そしてぼくは医師になった。より多くの人の命を救うことが、ぼくにこの頭脳を与えた天の意志だと思った。その予想は正しかったと思う。しかし天は、ぼくにそれを扱いこなせるほどの精神を与えてはくれなかった。ぼくは精神面もまた異常だった。死に対して、他人があれほど平気に割り切れるのが理解できなかった。誰一人として、死なせたくない。ぼくの頭脳は、そのために与えられたのだと思った。

 しかしぼくには、一度肉体を離れてしまった人間の生命を呼び戻すことはできなかった。

 だからぼくはもう、考えるのを止めた。ぼくは断じて、天才などと呼ばれる人間ではない。何一つ、天才と呼ばれるようなことはしていないのだ。人の生命すら救えないのだ。だから考えるのを止めた。このまま死んでしまいたかった。こんな頭は捨てたかった。

 そんな時、ぼくは京橋静に出会った。

 彼の存在は、ぼくの理解を超えていた。どこの本にも載っていなかった。今までの知識は、何の役にも立たなかった。生きている訳でも、死んでいる訳でもない、止まった人間。ぼくの頭脳が再び回り始めるのを感じた。ぼくは彼を、天から与えられたのだ。そしてぼくは天の意志に従い、彼を目覚めさせる研究を始めた。彼に会いたかった。彼と話がしたかった。もはやぼくは、それだけを望んでいた。

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 わたしは満月を見た。

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 ぼくは満月を見た。

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 わたしは、月彦と最後に出会った時を思い浮かべた。彼は何と言っていただろう?

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 巨大な満月は所々にまだらの模様を持っていた。その一つ一つには名前が付けられている。人間は空に浮かぶ、神秘の象徴を解明したかったのだ。一番大きく見えるクレーターは、コペルニクス、その周りは、嵐の大洋、その下は雨の海、その左は、晴れの海、その上は、静かの海……

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 わたしは自分の左手首を右手で掴んだ。脈が速い。なぜこんなに不安な気持ちなのだろう。満月だからだろうか。月が、そうさせるのか?

 月彦は何か哲学めいたことを言った。確か、物事には出口がないこともある、とか言っていた。それに対してわたしは何と答えたか? そう、入口も出口もないこともあると言ったのだ。

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 月の夜が人を不安な気持ちにさせるのは、月の魔力が、ぼくたちの世界を歪めるからだ。

 ぼくは静を目覚めさせることばかりを考えていた。しかしそれは不可能だった。詳しく書いた研究ノートは、先日燃やした。もはや残しておく必要もない。ぼくが不可能というのだから、間違いはない。

 それならなぜ、天はぼくに静を与えたのか。ぼくに何を望んだのか。

 ぼくは何を望んだのか。

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 その言葉を月彦は否定した。何と言った?

「いえ、入口はありますよ。でなければその物事は存在しませんから」

 そうだ。彼は確かそう言った。

「あ……」

 その言葉、月彦の穏やかな言葉が頭に響いた時、わたしは自分の発見に驚き、声をあげた。

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 そう、天と、静は、ぼくにこれを望んだ。そしてぼくも、ずっとこれを望んでいた。もう誰も不幸にしたくない。もう何も、考えたくはない。

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 わたしは立ち上がると、玄関まで走った。靴を履くのももどかしい。背中に汗が流れる。靴紐も結ばずに、家を飛び出した。満月に照らされた街は異様なほど静かだった。

 月彦は、静を目覚めさせることはできなかった。

 しかし彼は、静のように、自分の時間を止める方法は解明したのだ。

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 ぼくはこの日記を残しておく。もしいつか、時の流れが、ぼくのような人間を産み出すことがあれば。この日記と、静と、ぼくに会えることを望む。

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 わたしは走り続けた。何も考えられなかった。ただ、月彦に会いたかった。会わなければならなかった。

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 ぼくは死ぬのではない。逃避するのでもない。ただ時の流れに従うだけだ。時の流れに従い、ぼくの時間を止めるのだ。

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 月彦の家は明かりが灯っておらず、しんと月夜の下に建っていた。見慣れた家なのになぜか違和感を抱き、それがさらにわたしの脈拍を早めた。ドアの鍵は開いており、開けると冷たい風が流れた。何度も歩いた廊下をゆっくりと歩きながら、部屋の一つ一つを見て回った。月彦がそこにいないことは分かっているのに。暗い家からは何の音も聞こえなかったけど、懐かしい気配だけは、いつまでもわたしを取り巻いていた。

 一番奥の部屋、京橋静の部屋は少しだけドアが開いていた。何人もの人が訪れ、そして去って行った部屋。わたしはゆっくりとそれを開いた。

 月光が部屋を一杯に照らしていた。明るく、そして冷たい光。わたしの心を揺らす魔力の波。部屋の中にはベッドが二つ。窓際にはいつも通り、京橋静が止まっており、その隣には、片町月彦が、止まっていた。わたしはしばらくその姿を見ていた。部屋全体が、夢のように輝き、不条理に歪んでいた。やがて放心したようにゆっくりと、慎重に歩いてに月彦に近づいた。行儀良く眼を閉じた月彦の表情は、いつも通り、いや、いつも以上に穏やかだった。そこには、苦悩も、憂いも、全く窺えなかった。

 枕元にはいつも掛けていた銀縁の眼鏡と、一冊のノートが置かれていた。わたしは眼鏡を横に避け、そのノートを開いた。月彦らしい品のある整った文字で、詩的な日記が書かれていた。わたしは二、三ページめくると、ノートを閉じ、また元の位置に戻した。今はまだ読む気にはなれなかった。

 ふと、わたしが泣いているのに気づいた。いつから泣いていたのだろう? いつから泣いていなかったのだろう? そう思っているうちにも涙はどんどん溢れ、眼の端から頬へ流れた。胸に懐かしい痛みを感じた。なぜ泣いているのだろう? 母が死んだ日にも泣かなかったのに。祖父が死んだ日にも泣かなかったのに。月彦は死んでいないのに。ただ、止まっているだけなのに。

永遠に。

 わたしはしゃがみこんで泣いた。大声で泣いた。何が悲しいのだろう。でも、泣いた。分からないのに涙は止まらなかった。そう、何も分からなかった。なぜ月彦が止まったのか、なぜ止まることを選んだのか、少しも分からなかった。それが悲しかった。教えて欲しかった。ずっと、ゆっくりと、そうすればわたしにだって分かったのに。止まるのを思い留まらすことだってできたのに。そうして欲しかった。そうしたかった。だから悲しいのだ。だから泣くのだ。

 静と月彦は、とても美しかった。

 ひとり残されたわたしは、いつまでも泣いていた。

 満月がずっとわたしたちを照らしていた。

 何もかもが、悲しかった。



<下弦の月>

 九月十四日の朝は秋の風が吹いていた。

 朝早く起きたわたしは、父よりも早く新聞受けを開いた。居間に戻り、色とりどりの広告類を見て回った。大して興味深い広告はなかったが、その中で一つ、セイデンスタワーより高い建物があさってにもオープンすることが分かった。もうこの辺り最大のビルの地位は移ってしまう。新聞の三面記事には例によって、想像もできない額の税金の使い道と、猟奇的な殺人事件が書かれていた。そう、例によってだった。

 しばらく新聞を読んでいると、姉から電話がかかってきた。わたしが取ると非常に驚いていた。まさかこんなに早く起きているとは思っていなかったらしい。何の用事かと聞くと、なんと妊娠したと言った。わたしは驚き、喜びを姉に伝えたが、この歳で叔母さんになるのかと思うと、ちょっと落ち込んだ。しかし何にせよ、めでたいことだ。その後は電話の音で目覚めた父に代わった。父も踊らんばかりに喜んでいた。そして電話を終えると部屋を出て、仏壇に手を合わせた。ちゃんと母にも報告しているらしい。それが何だか嬉しかった。

 新聞と広告を片づけていると、隙間から封筒がこぼれ落ちた。切手を貼っていない所を見ると、直接家の郵便受けに入れたらしい。わたし宛の名前で、字が凄く上手だった。裏を見ると、片町陽介とだけ書かれていた。わたしは封を開けた。

 手紙の内容ではどうやら、片町月彦と京橋静をちゃんと引き取ったらしい。二人とも止まっているのだから、大して手間もかからないのだろう。また二人に会いに来て欲しいということが書かれていた。わたしは漠然と、それも良いかも、と思った。だがそうするのも、もう少し先になるだろう。

 わたしは月彦の家から、彼の日記をもらっておいた。彼の心を、理解したかったから。今からでも遅くはない。そう、彼はずっと止まっていてくれるのだから。

 片町月彦は、京橋静と出会い、何を話しているのだろうか?

 月彦の日記の最後には、こう書かれていた。

『もはやこの世界に未練はなく、ただ京橋静に会いたい一心で、ぼくは研究し、行くことにした。しかし、その寸前になってぼくは、この世界に唯一つの心残りを作ってしまった。もしかしたら、ぼくはまた、京橋静の世界で、この世界へ戻る方法を考え出すのかもしれない』

『ぼくが理解できなかったのは、どちらの世界においても、静だった』



 わたしの夏休みが終わった。



 時が流れているのを感じた。



(おわり)